06月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫08月

2014.01.07 (Tue)

生きている-NOTE

お正月のド深夜、というか朝方に放送していた『皇帝ペンギン』を観た。

画面越しに、あらためてペンギンを観察してみると「やっぱり鳥なのだな」と実感する。ずんぐりとした印象のわりに首が思いの外「にゅー」と伸びたり、よたよたとしたなんともいえない哀愁が胸キュンな歩きすがたも、鳥類の身体構造がそうさせているのだろうし。

この映画は、ペンギンのカップルの出逢いから、次世代の仔ペンギンの旅立ちまでの一年間を追ったドキュメンタリなのだが、そのなかで、(直積的な交尾の映像というわけではないが)明らかに「ペンギンのラヴシーン」を表しているのだとしか思えない、お互いが絡みつくような撮り方をしている箇所があって、「さすがフランス人(の感性)」と妙に感心してしまった。


わたしは漠然と、自然は「生命を育むために用意された場」であり、生命はそのなかで進化を繰り返すことで「終着点」に辿り着くための旅をしている(人類もまたその通過点)のだと考えていたのだが、それもちょっと違うのかもと思えてきた。

『皇帝ペンギン』でも、あたかも厳しい自然環境が生き残るべき生命を「選定」している(自然が生命の目的達成に関与している)ように見ることもできるのだが、実際には、完璧にデザインされた自然というサイクルのなかに、生命という別要因が放り込まれただけに過ぎないのではないだろうか。生命の旅とは、遠大な目的意識などない、ただ未開の地へと挑み、自らを変えていくだけの旅なのか。

世界は、生命をそれほど祝福しておらず、それらが生きていようが死んでいようがお構いなしなのかもしれない。しかし、そう考えると「逆に」精いっぱい生きるべきだと思えてくるから不思議である。特別なものではない、捨て置かれるちっぽけなものだからこそ、足掻く必要があるのだ。

これこそ雑草根性とでも呼べば良いのか。植物は、生命よりも自然の側であるように思えるが。



関連記事
00:39  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

Comment

コメントを投稿する

Url
Comment
Pass  編集・削除するのに必要
Secret  管理者だけにコメントを表示  (非公開コメント投稿可能)
 

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://sorrry.blog104.fc2.com/tb.php/941-22599e11

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | HOME |