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2013.01.28 (Mon)

大天才 Pablo Picasso 氏 曰く-NOTE



芸術は真理ではない。

芸術はわれわれに真実を会得させるところの嘘である。

芸術家は、嘘の真実を他人に納得させる方法を知らなければならない。







『Ghost Write』の名前があって、ビビったwww

それにしても、道玄斎さんの Blog で紹介することがまるで「ステマ」のようで、しかも内容に関して気兼ねなく好き放題に書ける、というほど距離が近しいのに、作品の情報は伝聞調で……というのが、いまいち謎だ。

とても親しい友人の作、ということだろうか。まあ、調べるのもアレだから良いけれど。(なんか対談? みたいなことをしていた。馴れ合いやがって、はっぷっぷ~だな)



More ......



このエントリにも登場する「ノベルゲームとしてのリアリティ」は、道玄斎さんがとくに気に入っている理屈のようで、Blog の初期から延々何年も説かれているものであるが、わたしは「ノベルゲームに適したかたちに加工されたリアリティ」というものがずっと腑に落ちなかった。

そもそも、創作された文章表現はすべて「虚構」である。例え実際の事件を題材にし、緻密に取材を重ねた「限りなくノンフィクションに近い小説」であっても、そこから完全に創作部分を省くことは不可能だろう。

では、いったいなにが、その「嘘の世界」を地に足のついたものに変えるのか。わたしはそれこそが「現実的な重み」、つまり「リアリティ」であると考える。これは「現実にあるものをそのまま描写す」るという写実的な意味での「リアル」ではなく、もっと鋭く人間(や社会)の行動原理・精神活動を正しく描きだす、という意味での「リアル」である。

つまり「現実世界」と「虚構世界」は個々に切り離された別々のものなどではなく、むしろ「現実世界」の存在こそが「虚構世界」の信憑性を担保しているのだといえる。そしてだからこそ、ディフォルメされた「嘘の世界」が、ときとして「現実」を超えていくのではないか。そのすがたにわたしたちは胸を打たれるのではないか。

いうなれば、嘘のために「真実」を書き換えるのではなく、「真実」のために嘘を築き上げるのである。ほんとうに「真実」に根ざしているのなら、そこに製作者に都合の良い「加工」など必要ないはずだ。もし「加工」を必要とするなら、それはきっと「でたらめ」なのである。


また、道玄斎さんは「キャラクターに関しては、本当にリアルな人間を描くと味気なくなっちゃうんじゃないかな?」などと述べているが、「本当にリアルな人間」を真摯に描いた作品が味気なくなることなどあるのだろうか!

ならば(毎度毎度で申し訳ないが)、Pixar の作品群を見よ! 例え登場するキャラクタが「おもちゃ」だろうが「虫」「魚」「車」「ロボット」「モンスター」「スーパーヒーロー」「おじい」だろうがなんだろうが、それぞれが血の通った生命として、完璧で美しい「人間ドラマ」を演じきるのなら、そこにはかならず「人のココロに届くなにか」が宿るはずである。(まあそもそも、Pixar 作品は人間をキャラクタに置き換えている部分があるので、人間ドラマであるのは当然ともいえるが)

そしてその「なにか」は「ある種の食べ物に異常なまでに執着を見せる……なんて」「手垢にまみれた」方法で付け加えられた「個性」程度で生みだせるものなのか、考えてみるといい。

結局、道玄斎さんがエントリで説いているのは、上っ面だけ良く見せるだけの「technique」ではないのか。そんなものよりももっと大切な「表現者(とあえて書く)」としての「soul」は、からっぽなのではないか。


このある意味での「見る目のなさ」は『Ghost Write』のヒロイン「由華」の人物造形に対する考察でも垣間見える。道玄斎さんは、作者がリアル志向に走ったことでヒロインの「ノベルゲームとしての」キャラクタ性が薄まったのだとしている。

だが、そもそもあの「ヒロイン」は後書きで語られているように、「JC」の「上位クラス」である女子高生では持ち得ない(らしい。そもそもこの理屈もまったく根拠がないのだが)「真っ直ぐさ」を描くために「作られた」人物なのではないか。あの「処女」と「母」を両方兼ね備えている「奇形」の少女の、どこが「リアル」なのか。思い切り「ノベゲ的な人工物」ではないか。いくら取材したからといって、仕入れたネタを正しく利用できるかどうかはまた別のはなしだ。

(だいたい、ラノベ程度に出てくる女性など、どれほど歳がイっても「幼稚」ではないのか。過去の「トラウマ」を抱えていたり、恋愛や SEX ができるのなら、それはもう「幼稚」ではないということか。女性をナメすぎているとしか思えないくらいの軽薄さである)

ヒロイン由華が(年齢、学年に比して)幼すぎるのではないか?」という指摘は、個人的に「仮に『お互いの精神年齢がつりあっていたほうが恋愛が成就しやすい』とするならば、(いちおう)社会人である主人公とはすこしつりあわないほどに~」という意味であると捉えた。「精神的に大人びた少女が年上の男性とつきあう」という構図になっていたほうが、フツーに考えて「現実的」だからである。

とはいえ、上記したようにヒロインは「真っ直ぐさ」の象徴として配されているのだから、そもそも「オトナ」であってはならないのだ。彼女が「女子高生ではダメ」であるという、その理由を考えてみるといい。この「真っ直ぐさ」とは「穢れなさ」や「純真さ」、つまり「処女性」と同義であろう。そして「JC」に固執するということは、「精神的」にも「肉体的」にもより「少女的」でなければならないということだ。

その完全な「処女(おとめ)」がなおかつ「母性」を発揮し主人公を癒す、というあのシークエンスこそがこの作品の肝であり、すべてであるとわたしは読み取った。辛辣にいえば、ただの「マザロリコン」のおはなし。だからわたしはこの作品が嫌いなのである。(まあ確かに、ヒロインを作り上げるために、実際の女子中学生に取材したという作者の姿勢にはビックリしたし、すばらしいとも思うが)

結局、ヒロインの「違和感」を指摘したほうも、それを受けて「キャラクタ論」を展開した道玄斎さんも、ヒロインに託された「願望」の真意を読み取れていない、ということにはなるが、それでも自分の感情をごまかすことなく声にしたもののほうが、「ノベルゲームとしてのリアリティ」などという「思考停止」気味の理屈でスルーしようとするものよりは誠実であると、わたしのようなものは思うのだがどうだろうか。(もちろん、「NaGISA 大先生」も自らのレビューで笑ってスルーしていたので同罪である)


わたしは「ノベルゲームで描かれていることは『大嘘』だから」という逃げを、「嘘の真実を他人に納得させる方法を知」ろうともしない態度を良しとしない。

そして、わたしはもともと「虚構」である「創作世界」に宿る「リアリティ」を(それが人間存在に深く切り込んだ普遍的な問いかけであれ、ある種の人々を癒す共感であれ、範囲はそれぞれ違えど)信じる。

……ということを考えさせてくれただけ、道玄斎さんのエントリにも価値があったということだろうか。(なんかちょっと、今回は上手くオチた?www)



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