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2013.01.26 (Sat)

みんな 悪魔を 飼っている-NOTE

昨年末にイッキ観した『シニカレ』(フジテレビ系列)のなかで、「理屈(での理解)と感情は違う」というようなやりとりがあって、ちょうど似たようなことを考えていたわたしは「おお!」とか思ってしまった。


(その『シニカレ』だが、やっぱりわたしは登場人物に都合の良い「奇跡」を良しとするおはなしは嫌いだわwww 最初は「別れさせ屋」とかが舞台で、けっこうドライな世界観なのかと思っていたのだけれど、いつのまにか周り全員が「ヒロイン絶対肯定」のぬるま湯と化していったし。まあ、この甘ったるさは確かに「ラブストーリー」ではあるのだけれどwww)


そう、人間には「理屈での理解」と「感情での理解」とがあり、そして世のなか大抵の場合は「感情」のほうが優先されるのだ。例えば本来、政治家は「理屈」に適う政策を訴えなければならないはずであるが、有権者の「感情」を害する(=票を失う)ことを怖れるがあまりに、「感情」に訴えるだけのパフォーマンスに徹している、というような。


昨今の「イジメ流行り」を受けて、イジメ被害者に向けての「自己肯定ソング」のようなものを耳にする機会が何度かあった。確かに、被害者(「現」や「元」)を「感情」的に癒すことも大切だろうが、しかしそれは、根本的な解決方法ではないように思える。これは政治家の、有権者を「感情」的に煽るパフォーマンスと違いはないのではないか、と。

ほんとうにイジメをどうにかしたのであれば、わたしはむしろ加害者に(以前のエントリから引くとすれば)「生きがい」を与えるべきではないか、と考えている。別に「生きがい」を「幸福」や「希望」に置き換えても良いが、とにかく加害者が自身の人生をポジティブに捉えることができるようになれば、イジメ(というより「他者に対する攻撃性」)は確実に減るはずである。

(これはまた、「はるかぜ=おりこう=ちゃん」の寄稿した文章のように「理屈」で加害者を説き伏せようとしても意味がない、ということでもある。わたしたち人間は、「感情」的に健やかでなければ悪意を飼いならすことができないのだから)

そしてまた、「反省」や「更生」の面でもおなじことがいえるはずで、(自覚的であれ無自覚であれ)「自分が世界から見放されている」と考えている人間は、ぜったいに反省などしないだろう。自分を愛せないものは他人を愛することもできないし、他人を愛することができなければ、他人の痛みについて想像することもできない。そして反省とは、想像から生まれる「感情」なのではないだろうか。


と、ここまではわたしの「理屈」である。だがしかし、いまのように世間がやみくもに「感情」で加害者を打ったとして、そこからなにが生まれるのか、わたしにはわからない。

そういえば、わたしも「悪魔を飼っている」。



More ......



いまさらすぎて恥ずかしいのだが、斎藤和義の『やさしくなりたい』を聴いている。昨年の紅白で耳にしてから、どうもあたまに残ってしまって。

まあ、斎藤和義自体はどこかウサンくさい部分があって好きではないのだが、この歌はなにかグッとくるのだ。主にサビというよりも、その直前の「~ばかりじゃ」という言い回しに。

ただ、この歌に『世界にひとつだけの花』のような「悪い自意識」を感じている人もいるかもしれないと、(『世界にひとつだけの花』を批判していたわたしとしては)ちょっとビクビクしているwww



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