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2012.07.15 (Sun)

悲しみょ こにゃにゃちゎ-NOTE

上野動物園の子パンダちゃんに献花しにいって、カメラの前で号泣しているひとがいた。

そのひとの「短い間だったけど、わたしたちを楽しませてくれてありがとう!」といったようなコメントを聞いて、ああ、子パンダちゃんは、その小さなカラダでは割に合わないほどの速度で「消費し尽くされてしまった」のだな、と思った。


ところで、子パンダちゃんのためにわざわざ献花しにいくような「二百人超」の方々は、家の近くの交差点でひき逃げ事故があったとき、おなじように悲しんでくれるのかな?

絶滅危惧種でもない、外交上のカードにもなりえない、そしておそらくたいして愛らしくもない、ただの「人間」なのだけれども。



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そう、まさにわたしが中学生だったとき、実家に「在日コリアンの男子中学生が、いじめを苦に飛び降り自殺をした事件」に関するルポルタージュがあった。文庫ではなくハードカバーだった。学校にもいかずに「ちょうど暇だった」わたしは、それを複数回読み通した。

「事件」があった正確な年代はさすがに忘れてしまったが、資料として掲載されていた「小学校時代の卒業文集」に、当時流行っていたのであろうフォークバンド、『アリス』の代表作が書かれていた。Wikipedia によれば、その楽曲は 70年代の終わり頃に発売されているので、「事件」はその数年後、おそらくは「80年代」初頭のことだったはずだ。

本のなかでは、「肉体的な暴力」や「金銭の要求」についても触れられていたと思う。


「90年代」には、「週刊少年ジャンプ」誌上でいじめに関する特集が大々的に組まれていた、といったら、いまのジャンプ世代は驚くだろうか? 「進研ゼミ」のベネッセが出した「いじめ調査本」はまあ、納得なのだが。

とにかく、その時代に生きたものの「実感」として、世間のいじめに対する関心の高まりがあったのは確かだろう。


そして先日の『NEWS ZERO』に、見た目イカツめな、こどもたちが主体のダンスグループを率いている「おっちゃん(元)先生」が出演していた。

『NEWS ZERO』が「おっちゃん先生」とダンスグループを取材したのは「2006年」のことだそうだが、彼が言うには、その頃から教育現場は「なにも変わっていない」らしい。




教育現場でのいじめが「自殺」というすがたでわたしたちの前に現れるとき、「オトナ」たちの口にすることばは毎回毎回おなじものだった。つまりは「いじめを速やかに撲滅せよ」である。

しかし、果たして「いじめを撲滅する」ことはできるのだろうか? いや、別に「しょせんこの世は弱肉強食」だの「人間の『悪のココロ』はなくならない」だのといった、「90年代」の「いじめ本」に載っているような「つまらない理屈」を並べるつもりはない。

ただ、父親が働きに出れば同僚同士で足を引っ張り合い、母親が家にいればママ友同士でいがみ合い、ネットの世界では「近隣諸国民」に対する人種差別的な書き込みがいくらでも目につき、海外では敵対勢力を「本気で絶滅させようとしている」ような、この「現実」のなかで、「教育現場」だけがまったく平和で「のびのび、すくすく」といったことがありえるのか? と問いたいのだ。


結局のところ、「起こりうること」は起こる、というだけのことなのかもしれない。「学校」のなかに形成されるものが「小さい社会」であるのなら、学校の「外」である「大きな社会」で起こりうることは、すべて起こる。なぜなら「小さな社会」は、こどもたちが「大きな社会」に属している「オトナ」から「社会のあり方」を学んだ結果だからだ。

つまり、「小さな社会」は「大きな社会」の鏡像なのだ。したがって、「大きな社会」で問題が解決されない限り、「小さな社会」が変わることはない。「小さな社会」はオトナが思い描く「理想の世界」を実現させる場などではなく、ただ、そこで生きるこどもたちにとっての「現実」なのだから。

オトナはまだ、自分たちが与えた「ハコ」の「中身」まで自由にコントロールできると信じているようだが、そう都合良くいかないことは、上に示した「歴史」が証明しているだろう。





はなしはすこし変わって、「攻撃性」のこと。

人間が他人さまに対して攻撃的になるのは、自らの抱えている「不満・不安」が原因なのだろうけど、じゃあ、その不満や不安がどこからくるのかと考えてみると、現在の「自分を取り巻く環境」のほかに、過去の「学生時代の経験」のまた多いのではないか、と思える。

Web 世界には、それこそ「学生のときのいじめ」に対する復讐を謳って活動しているひとすらいるし、そこまで激烈なものでなくとも、学生時代の思い出が現在の自分に(良くも悪くも)大きな影響を与えていることは間違いない。

だから、「いじめ」で「自殺」という「事件」が全国規模で報道されるとき、国民の憤りが吹き上がることになるのだろうけど、あれもきっと「正義の御旗」を振りまくりたい「部外者」だけではなく、自分の「過去」がふいに訪れてきて冷静になれない「当事者」もまたいるのではないかと想像してみる。


仮にオトナが本気を出して、「zero-tolerance policing」の恐怖政治でこどもたちを裁いていったとしたら、「大ケガするほどのリンチにあう」「オナニーを強要されて辱められる」「何百万円もむしり取られる」といった規模の「いじめ」はなくなるかもしれない。

それでも「被害者の人格に悪影響を与える行為」のすべてを取り除くことはできないと思うし、どんなに小さな「いじめ」であっても、たったそれだけのことで、やっぱりその先の人生は変わってしまうことだろう。

結局は、いまとそう変わらないことにしかならないのではないだろうか、と思う。だから、鼻息の荒いオトナを見ても、虚しいだけだ。





いじめを未然に防げない現在、「いじめにあったときに、どのような選択をするべきか?」を考えるほうが現実的であり効果的だろう。ちなみに、わたしは「律儀に通い続けていじめ殺されるくらいなら、さっさと逃げるべき」だと思っている。

ただ、ここが難しいところで、「逃げっぱなし」というのも、それはそれで問題になってくる。世間は冷たいものなので、20代の半ばを過ぎればもう「自己責任」で誰も助けてくれなくなる。なるべく早い時期に人生を立て直すために動き出さなくてはならない。

例えば、「おっちゃん先生」のような良き理解者に出会うことができれば、誰だって救われもするのだろうが、それはもう「運命」の領域なので、なかなか思い通りにはいかないだろう。




そういえば「おっちゃん先生」が「いじめられている子は視野狭窄に陥っているので、いくら未来に関する希望を語っても意味がない」「また、特に男の子はプライドが高く、両親に心配をかけまいとするので、なかなか自分の口からいじめを告白することはない」「だから、結局は教師がいじめに気づくしかない」と言っていた。

これを聞いて、以前に「痛み(=いじめ)」から逃れるためには「新たな痛み(=両親に対する罪悪感)」を受け入れなければならない、と書いたことを思い出した。やっぱり、「優しさ」を抱いて死ぬのは馬鹿らしいと、いまでも思っている。





あまり関係ないかもしれないが、ギャルゲ的な設定で「サボり魔な主人公」というものがある。

「学校に通い続ける意味」を本人が見いだせないのに、それでも籍を置いておくことが有益だと結論づけられるのは、「学校からは安易に逃れられない」という現実を映し出したものなのかもしれない。



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01:20  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

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 |  2012.07.15(日) 19:28 |  |  【編集】

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