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2012.03.09 (Fri)

ジサツシガンシャさん 元気かな-NOTE

胸のなかでぐるぐるしている思いを、的確に文章で表現できないからこそ、作品を作るのだのだ。

※誤字ではない。気分だ。



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すこし前に、自殺した男子学生の「遺書」が彼のケータイに残っていた、という話を報道番組で観た。もちろんそこには、生と死のあいだで揺れ動く葛藤と、両親に対する思慕とが溢れていた。


死にたくなる理由は年齢や環境、立場によってさまざまだろうが、どちらにせよ、「痛み」から逃れるためには、新たな「痛み」を得ることを選ばなければならない。

彼にはおよそ「ふたつの選択肢」があったはずだ。つまりは「自死」の道と、「両親に自分の置かれている危機的状況を正直に訴え、ともに戦う」道とである。どちらの道も激しい「痛み」であることは、多くの人間が苦痛にのた打ち回りながらも、最終的に前者を選んでしまうことからも判る。

そう、親しい人に「心配」や「迷惑」をかけることは、とても大きな「痛み」なのだ。それも「死」と天秤にかけても勝ってしまうほどの「激痛」である。自殺に悲劇性があるとすれば、まさにこの部分ではないだろうか。

しかし、その理由はどこから来るのだろう。「優しさ」か「プライド」か、ストレスに耐えられなくなったのか、あるいは死の誘惑が彼らを盲目にさせるのか。

そういえば、病気で臥せっているときは「死にたい」と悲観的になっている人間も、いざ快復してみたら、そんなことを口走ったことすら忘れていた……という話を聞いたこともある。「痛み」は人間を惑わせる。「痛み」のなかで生じた感情が、すべて真実であるかも判らない。


いや、そもそも「選択」を強いられること自体が理不尽であるともいえるのか。

自殺した男子学生は同級生にたかられていたことを悩んでいたらしい。「らしい」としかいえないのは、彼の「遺書」に出てきた断片的な名前だけでは、その同級生が彼にたかっていたことを証明することができないため、警察も動きようがない……という「現実」が、そこにあるからである。死によって「痛み」から解放されたとしても、すべてをこちらに置いていけるわけでもないようだ。


人生は苦しみのほうが多いという人もいる。わたしたちは「痛み」を選び続けなければならないのかもしれない。



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