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2011.09.25 (Sun)

Try again, try again, try again. Never stop it-NOTE

この空の下で生きるひとりひとりの人生が、世界の広さを決めている。


#1

前回のエントリで挙げたもうひとつの試練、「挑み続けること」について書く。といっても、これはいたってフツー、誰でもやっていることだ。別に、記録を狙って日々精進しているアスリートだけのはなしではなく。

わたしたちは、後から後からやってくる大小様々な事柄に、常に挑み続けなければならない。その瞬間その瞬間に選択し続けなければならない。未来はその結果、しかも一時的なものだ。すぐに追いつき「結果」に基づく新たな選択をしなければならない。そのようにして人生は回って行く。他の方法は(おそらく)ない。

わたしたちは、平穏な日々のなかで、たまにやってくる困難が「試練」なのだと勘違いしているが、それは、寝ぼけながらでもこなせる事柄が多いことや、丸投げ・先送りが効くということ、そしてそもそも、そんなことを考えていたら人生なんてやってられないという理由で、無自覚になっているだけだ。

また、わたしたちの社会では、困難にぶつかったとき、すこしのあいだ立ち止まることは許されるが、人生そのものを投げ出すことは許されていない。すくなくとも、一般的な感覚ではまず引き止められる。その理由は「人それぞれ」だろうが、人生が「無限の困難に死ぬまで挑み続けるという試練」であるとするならば、「前提」を理由に前提を否定することは正しくないといえるので、どんな理由であれ、いちおう理解はできる。どんなにココロを叩き折られたとしても、いつかは歩き出さなければならないというのは辛いことかもしれないが、それこそが「人生の本質的な部分」なので諦めて、というわけだ。


「人生は無限の試練」といってしまうと息苦しくてしかたがないかもしれないが、しかし、だからこそわたしたちは「克服」や「変化」のドラマに感動するのではないか。

例えば、フィギュアスケート選手の安藤美姫さんは、TV で積極的に取り上げられ始めたころは「フィギュアのすごい上手い女子高生」という印象だったが、いくつかの挫折と栄光とを経て、いつしか偉大なアスリートに成長した。わたしはその事実にとても感動し、彼女を尊敬している(まあ、最近は超然とし過ぎているので、親しみやすさには欠けるかなとも思っているが)。だから、わたしはだんぜん「ミキティ派」なのだ。例え「ネコバス顔」とか「ダース・ベーダー」とか言われようとも……って、まあ、どうでも良いことだが。

とにかく、わたしたちは時に、他人の人生や物語のなかで語られる「試練」に触れることによって救われる。共感によって社会的なつながりを実感し、自らの役割を再認識できるのなら、そこに「希望」はある。

成功者のことばに多くの人が勇気づけられるのも、そのなかに「試練」に対する普遍的な教訓を見出すからだろう。ただし、「自分も成功者になれる」と錯覚させたり、試練そのものの存在をぼやけさせるような惑わしは善くない。


そうなると、Free Novel Game の「感動系作品」は「克服の物語」なのか「ただの惑わし」なのかという疑問が出てくるのだが、これはどうなのだろうか?

わたしは、その作品に込められたメッセージによって評価が変わると思っている。作品自体がどんなに上手くまとまっていたとしても、メッセージが平凡だったり下らなかったりしたら「おもしろくない」と感じるし、どんな抗弁をしたとしても、そのなかで表される「悲劇(試練の「過程」)」を「利用している」とも感じる。

まあ、あくまでわたし個人の「感覚」でしかないので、それを正当化できるとも思っていないが。評価が不当だと訴えられたときは、そのときに議論するしかない。



※逃げグセのついたダメ人間のわたしにとっては、かなり重大な命題なのですが、いまいちまとまりきらないなあ。



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16:02  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

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