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2011.09.25 (Sun)

One life, A lot of death-NOTE

この空の下で生きるひとりひとりの人生が、世界の広さを決める。



わたしたちに与えられた宿命のなかで「試練」と呼べるものはなにか考えた。ひとつは「挑み続けること」。もうひとつは「死による別れは避けられない」ということ。

順当にいけば、まず親のほうが先に死ぬ。兄弟姉妹もおなじように死ぬ。伴侶があるものは大抵、男のほうが先に死ぬ。友人も死ぬ。直接会ったことのない、敬愛する人間も死ぬ。家族同然のペットも死ぬ。そして、順序が前後するにしても、あなたも確実に死ぬ。わたしたちは、死に向かって走り続けている。

これはまだ想像でしかないが、そうやって死に遭遇し続けることで、晩年、「悲しい」の「先」ある境地に辿り着けるのではないだろうか? そして、そこに「人生の意味」のひとつが隠されているのではないか? もちろん、どれほどの死を乗り越えなければならないのかは判らないが、人生に「答え」があるとすれば、それはやはり「終わり」に近づかなければ判らないのだろう。

そう考えると、近しい人の死によってココロが押し潰され、自分の人生をも投げ出してしまう人がいるのは悲しいことだ。精神的な支えを失うのは、確かに辛い。しかし、わたしたちは前半生で築き上げてきた支えをすこしずつ失い続け、やがて独りになるのではないだろうか。それが逃れられない定めなら、どうにか受け入れるしかない。もっとも、すでに死んでしまった人に「理解しろ」というのは酷なことだろうが。



全くはなしは変わるが、Free Novel Game 作品(というか、「美少女ゲー」の引力に繋ぎとめられている作品、か?)では、両親は大抵の場合、不在であるか死別しているかのどちらか(いるとしても、全肯定的な理解者としての役割が多い)なのだが、これはいったいなぜだろうかと長いこと疑問だった。

物語的な側面からいえば、最も近しい存在である両親との死別は「痛みを抱えた人間」の構成要素として適当であるといえる。また、こどもをほったらかしにして世界中を飛び回っているような両親がいたとして、そういう特殊な家庭環境で育った人間は、得てして「美少女ゲー的主人公」としての資質を持ち合わせるものだ、とも思える。

まあ。実際のところは「商業作品のコピーであるから、そんなこと疑問にも思っていない」か、「製作者の感性が未熟なので、そこまで思い至らない」か、「両親に良い思い出がないので、描写したくない」かのどれかではないかと考えているのだが。


現実世界の人間は、自分が属する環境からの影響をかなり受けている。政治家の家に生まれれば政治家になるのだろうし、音楽的な資質を持った両親に育てられれば、当然のように音楽に興味を持つのだろう。また、ムービースターの子息たちがセレブとしてもてはやされるのも必然だ。彼らは生まれたときすでに、その「資格」を持っているのだから。

もちろん、フツーの家庭から才能溢れる人間が生まれてくることもある。がしかし、例え彼らが「運命との出逢い」によって導かれ、自力で道を切り拓いたのだとしても、そこに環境の影響がないとはいえないだろう。自分のことは判らないのだから。

まあ要するに、そういう背景のこともすこしは考えてくれると作品がもっとおもしろくなるのに、ということだ。前に「テンプレ設定満載の王道作品であっても、必ず細部に差異が生まれる。それこそが個性だ」と主張していたレビュアーがいたが、ものを考えもせずに自分のフェチを散りばめているだけでは、なんの価値もない。わたしはもっと欲深く要求する。「おもしろいものを作れ」と。



※このエントリの前半部分は、上原美優さんの自殺からずっと考えていたことです。もちろん、まだ答えは出ません。



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12:54  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

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