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2011.03.19 (Sat)

よあけ であるか たそがれ であるか-書きゴミ

すでにガレキと化し、雪に埋もれてしまった「我が家」に戻り、

「泣くに泣けない」「(年齢的に)新しく家を建てることもできないだろう」

と打ちひしがれていた老人の「絶望」を思う。



乗っていた自動車ごと津波に流される、という体験を経て

それでもなんとか遠く関東の地に逃げ延びることのできたご婦人の、

決して言葉にならない「恐怖」を思う。




世のなかはいま、この歴史的惨劇に見舞われたわたしたちの

「善意」からの「祈り」で溢れかえっている。



がしかし、わたしたちが掲げる「勝利と再生の物語」によって

「ほんとうに」癒されるのは、「被災地」と「そこに住む人々」か?

それとも「すでにガレキのなかにいた」わたしたちのほうか?



もし、そう遠くない未来に「生まれ変わった街」を見て安堵するためだけに

この「物語」があるのなら。

あるいは、「わたしたちがすでに手放してしまったもの」を取り戻すためだけに

この「物語」があるのなら。


きっと、これほど恐ろしい悲劇はない。

老人の「絶望」や、ご婦人の「恐怖」をも「消費」してしまうということだから。




「未来」を失った多くの犠牲者とおなじように、

生き残ったわたしたちもまた「過去」を失った。

記憶のなかの、ほんの一週間前までの「世界」は、すでにどこにもない。

わたしたちは、確かに新しい世界のなかで立ち尽くしている。



ただ、この「新しい世界」が夜明けに向かっているのか、

それともすでに黄昏のなかにあるのかは判らない。

まだそこに「希望」があると信じる人がいる限りは、とりあえず。




<突然振って湧いた「祭り」に浮かれている人たちの「がんばれ」「負けるな」「もういちど笑顔を」などの「善意の叫び」は、「買占め行動」や「略奪行為」をする「不届者」とのコインの裏表。これでは結局、似たような災害が起きるたびにおなじことを繰り返すだけで、実際はなにも変わらないか、あるいは「もっと良くない方向」に社会を押し流してしまうだろう。

わたしは声高な「祈り」よりも、老人の拭いようのない「絶望」のほうを信じる。「希望」はわたしたちの求める「物語」のなかではなく、これからの「わたしたち自身のあり方」にこそある>
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