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2015.12.04 (Fri)

ことば足らずが多くてゴメン-NOTE

100 percents 純粋な自己表現がそのまま芸になる人って、ほんの一握りだろうから、多くの場合は送り手 (ノベゲではプレイヤー) の反応などを想定しなければ、というのがわたしの見解。

(別に、プレイヤーにおもねるべき、というわけではなく)









まあ、それはそれとして。

上記の tweet を読むと、ガムベースさんの言う「ためらい」や「疑い」とは、「制作者としての」気付きや発見に対する感動なのではないか、と思える。

その感動が「制作者としての視点」がなければ得られないものであるのなら、一般的なプレイヤーにとってはあまり関係ないものなのではないだろうか。









例えば、この tweet で語られる「配慮」は、ガムベースさんのプレイヤーとしてのストレス、その体験から導き出されたものであるから、プレイヤーを優先したものになっている。









それと比べて (繰り返しになるけれど) 、プレイヤーの「能動性」「主体性」を引き出すためにクリックの「負荷」を上げるという理屈は、やっぱり誰得なのだろうか。

そもそも (これも繰り返しになるけれど) 「文章と動的演出が同期している、瞬間瞬間の時間的体験」で必要になってくる「能動性」「主体性」ってなに?

というか、ある作品を選び DL して解凍してゲームを立ち上げ読み進める、という主体的な選択や、作品世界に「参加」するという能動的な精神活動以上の「何か」が必要なの? それは誰のために?













いや、いるでしょ!www 三歳児がスマホをいじくるような時代だよ。

あまりにも常識的な大前提は、省略してしまうのが一般的なのではないですか?

問題提起自体を否定するつもりはないけれど、だいぶ重箱の隅をつついている感があるよ。









この tweet なんかはもう、わたしにはちょっと良くわからないのだけれど、ノベゲでの文章表示の速度 (処理) を自分 (読み手) でコントロールできないことが不安なの?

確かに、紙の本なら印刷された文字は不動であるし、文章を追うのもページを繰るのも自分の身体を通しての行動ではあるけれど。

自分のテンポと合わないとしても、ノベゲは不特定多数の人間が読むものだからなあ。









思ったのだけれど、ガムベースさんの「クリックに対する違和」と「プレイヤー観」は、どこか通じているのではないか。

プレイヤーが「常に表舞台に現れている」ものなのなら、「能動性」や「主体性」が必要になってくるのも頷ける。(具体的になにか、というのはわからない)


ただ、ノベゲにおけるクリックは、別に薄まるだけ薄めれば良いと、わたしは思うのだけれど。

例えば、テーマパークのライド系アトラクションは、映像や音響などを用いて作品世界に没入させることで観客を楽しませているわけだけれど、その究極って「乗り物に乗っていることすら忘れさせる」ことなのだよね、たぶん。

おなじように、ノベゲもそのなかで表現される物語 (ガムベースさんのいうところの「時間的体験」) に不必要なものノイズはどんどん削ぎ落としていく、という方向に行くのなら、クリックへの意識なんて邪魔になるはずなのだけれど。




もしかして、「読む」と「観る」の齟齬がある?



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