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2014.10.31 (Fri)

人間は往々にして 「過去に裁かれる」-NOTE

わたしの、生物学上かつ戸籍上の父親だった人が昨年末に亡くなっていたそうだ。

どうも、それなりに長いこと、脳梗塞で臥せっていたらしい。

そう言われて思い起こしてみれば、酒も煙草もやって、さらに晩年は老母と暮らしていたそうだから、長生きする理由などないというものである。

その事実を聞かされ、思ってもいない時期に「親を失った者」となったわたしは、モヤモヤとした気分になったことは隠しはしないけれど、しかし、なにかことばになるほどの感情が起こるわけでもないのだった。正直、有名人の死亡報道と大差はなかった。


似たようなものだが、報を受けた後、嬉々として知人たちに電話して回る母親が恐ろしかった。人間の残酷さである。


それにしても、これは以前から感じていたことだが、「死」というもの自体には、まったく意味などないのだと、確信させられる。

人間の「死」は、例えば星の終わりの時のように、宇宙になにかを遺すわけではない。あるのは生き残ったわたしたち生者の想いだけである。

言い換えれば、「死」というものは、この生者の世界にしか存在しない。「死」によって拓かれ、向かうべき場所などないし、さりとて、墓石の底に留まるものもない。

生がバブルのように弾けた様を、わたしたちが見つめ、なにかを感じるその瞬間にだけ「死」はあるのである。腐った屍体、焼かれた遺灰は「死」ではないのだ。


そう考えると、わたしたちが生きなければならない (=死んではいけない) 理由とは、ただわたしたち生者が「生き続けているから」ということにならないだろうか。

この世界に、死者の入り込む余地はないのかもしれない。


とりあえず、メンドくさいから借金とかありませんよーに☆



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