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2014.03.30 (Sun)

「オーソドックス」も ジャンルのひとつだと 思えば良い-Free Novel Games

例えば、ホラーは個人の「好き・嫌い」「大丈夫・苦手」という態度がわりとハッキリするジャンルだろう。

だが、「ホラーである」という理由だけで「ダメだ」とか「面白くない」などと評価されることはない。ジャンルは作品の方向性を示す指針であり、それ自体で作品の出来を決定するものではないからである。

しかし、「オーソドックス」と呼ばれる作品はこの限りではなく、「オーソドックスだから」駄作である、という烙印を押されることも少なくない。「オーソドックス」は、どちらかといえば作品の出来に係わるものであると考えられているように見える。


とはいえ、そもそもこの「オーソドックス」とは、NScripter や Livemaker の初期設定そのままといったような作品の様相のことなのか、あるいは、使用頻度・遭遇率の高い人気素材サイトの背景素材・楽曲素材を多用しているセンスのことなのか、または、ありきたりな手垢に塗れた物語のパターンのことなのか? それらのすべてなのか?

ひとくちに「オーソドックス」といっても、そのことばが指し示す要素は作品によってさまざま・まちまちなものであるはずなのに、「オーソドックス」のひとことで括ってしまうと、どこかぼんやりとした(個々人で変わる)イメージになってしまう感がある。



この「オーソドックス」の扱いにどうもスッキリしないという人は、「オーソドックス」をホラーとおなじ「ジャンルのひとつ」だと捉えてみると良いのではないか。

作品の出来や評価に直結しない、個人の好みの範疇の事柄であると考えると、世間の「オーソドックスを許せる・許せない」という対応の仕方もそれほど間違いというわけではなくなるし、理解もしやすい。

わたし自身、「オーソドックスでも良いじゃない!」という意見を「だってワタシの好きなジャンルだから!」と意訳することで、スッキリと合点がいった。きっと、彼・彼女らは「オーソドックス」そのものに強く共感しているのだろう。




ちなみに、わたしは「(没個性的といった意味での)オーソドックスと呼ばれる作品にも、制作者ごとの個性がかならず表れる」という主張には共感しない。

Erich Seligmann Fromm はその著書『The Art of Loving』で「愛は技術である」と説いたそうだが、個性もまたおなじように「後天的に獲得するスキル」であると考えるからである。

「ただそこにある」というだけでは、それはせいぜい「個体差」くらいの弱い特性でしかないし、「ただそこにあるだけで価値がある」という『世界にひとつだけの花』的な価値観も感化できるものではない。

「オーソドックス」を積極的に許容できる人々は、先進的で開かれたモノの見方をしているのかもしれないが、ただ「畏怖の念すら抱くような才能」「嫉妬に狂いそうになるほどの才能」に出会ったことがないだけなのではないかとも思えてくる。




それにしても「オーソドックス(な物語)」とは、制作者にとってはハードルが低く、プレイヤーにとってはハードルの高いものではないか。

Free Novel Game 制作の初心者は、よほど研究したり、コダワリを持っていたりでもしない限り、世間に広く流布されている(からこそ自らが触れる機会も多い)物語のパターンをロールモデルとするのが自然だろう。

しかし、プレイヤーにしてみれば、その数え切れないくらい繰り返されてきた選択は、すでに見慣れ、見飽きたものであり、結果、制作者とプレイヤーのあいだに、なかなか埋まりえないギャップを生むことになるのだ。

「オーソドックス」が倦厭される理由は、こういうところにもあるのではないだろうか。



02:20  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.29 (Sat)

自由の彼方に 地平線を引け-Free Novel Games





「推測だけでいきなりエントリを上げるようなことなどせずに、御本人に直接確認」は、そうですね。勝手に勘ぐったのだと明記したとはいえ、推測でリンクを張ったのはよくなかったですね。

ただ、そういう事をはっきりさせたかったわけではないです。自分の考えをまとめるきっかけになって丁度よかったというのが大きいです。


別に皮肉とか非難とかではなく、直接尋ねることができるのなら、いろいろとはなしを訊いたほうがより有益だろうと思っただけです。

ただ、自問自答の叩き台にしただけというのなら、その旨、承知しました。




「多分、作者はそんな事考えてないよ」ということについて考えることを道玄斎さんが倫理的に否定しているとは思わない(後略)


作品や、その内容を、じっくりと反芻して、ノベルゲームから「考える事」を引き出したいプレイヤーっていますよね。私の知り合いにもいますw 「多分、作者はそんな事考えてないよ」ってな事でも、真剣に考えちゃう。

下手な考え休むに似たり、ってことわざもありますけれども、そういう人は、頭がいい人が多いんですよねぇ。そういう人にとって、この作品の持つ、「読みにくさ」っていうのは、寧ろ逆にプラスに働くのかもしれません。

まぁ、私は馬鹿で、考えるのがニガテなので、難解な漢字や表現によって、ストーリーをストレートに読み解きにくいという所で、「気になった点」として挙げましたが、こういう作品が出てくるから、ノベルゲーム漁りが止められないんですよw




そりゃあ、「倫理的に否定している」わけではないことくらいはわかりますが、前後の文脈から推測するに、道玄斎さんは、その知人に対して皮肉を言うというか、ちょっと馬鹿にしている部分はあるように読み取れます。例えば「草」を生やしているところとか、「下手な考え休むに似たり」のことわざを引用しているところとか、相手を「頭がいい人」として自分を「馬鹿」と落としているところとか。

まあ、道玄斎さんがだれのことを指してこういった物言いをしているのかわかりませんから、これ以上なんとも言えませんが。




「多分、作者はそんな事考えてないよ」ということについて考えることは、作品を読む、感想を書くということに際して、かなりの割合でついてくるんじゃないかなと僕は思います。作品を読むということは、必ずしも「作者の意図」を読み取ることではないからです。作者のご機嫌取りのために読むわけでもないです。

ここでいう「多分、作者はそんな事考えてないよ」は、制作者が「意図・想定・設定」していない「考える事」を引き出そうとする知人の姿勢に対する「たしなめ」であるようにわたしには見えますが。




akino さんがいう「結局のところ、Free Novel Game 作品はあくまで「制作者のもの」で、その内容をどう捉えるのかも、ある程度、製作者の意向に沿うものでなければならない、というのが、この業界の「暗黙のルール」なのだろう」という御見解には同意しかねるといいますか、大多数がそうである、とは感じていません(もちろん僕の見解が間違っているかもしれないが)。

確かに、「暗黙のルール」というと「明文化されていないだけで、そのコミュニティに属する大半の人々が、はっきりと自覚しているルール」という印象になってしまいますね。であるなら、もうすこし意味合いをまろやかにして「支配的な空気」くらいにしておきます。

ただし、上記「たしなめ」から導き出した「結局のところ(中略)なのだろう」という結論が、それほど間違っているとは思えません。この「たしなめ」には、個人の「自由な」モノの見方(それが正しいかどうかはまた別)を修正しようとする意志が(自覚的であろうがなかろうが)見え隠れするからです。

とはいえ、わたしは一般的なレビューサイトの現状をまったく把握していません(むしろ、積極的に他人のレビューを遠ざけているくらい)から、これらはあくまで「わたしには世界がこう見えている」というだけの空理空論で、実際は古参のレビューサイトなど時代遅れも良いところ、その他の新規参入者は百花繚乱、個性が咲き乱れているというのなら、それは結構なことですし、そうであってほしいとも思いますが、まあ、それはないのでしょうね。




僕は内容について訊かれれば答えられる範囲で答えますし、答えた時点で覚えている限りにおいてそれが「作者の意図」なわけですが、そういう行為は「この作者の言っていることはおかしい。ちゃんと書けてない」ととられる、あるいはバレる危険性もある。akino さんのとき、そうだったように。

そうですね。ガムベースさんのようにいろいろとお考えになっている人ならば、作品内の描写にもなんらかの意図があるのだろうと思い込んでいたのですが、実際は「良くわからない」「もう忘れた」という部分も多かったのですよね。

ただ、それは「ほんとうになにもなかった」のではなく、音楽におけるアドリブに近い、天才的な瞬間の閃きがそこにハマったということなのだろうと思います。でも、それはまたアドリブとおなじように再現性がほぼない。だから制作者のなかにも「答え」はない。

であるなら、(実際にあるのかどうかわからない)制作者の意図を追求するようなマネをするより他に、その混沌めいたアドリブ部分を読者側の解釈によって埋めることも可能なのではないかと思えるようになりました。「読者が作品を完成させる」です。

もちろんこれは、作品の益になり、制作者も納得し喜ぶような解釈であるのが最良なのはいうまでもありません。




「読み解く」なんて言葉で書いてしまったけれど、「読み解く」とはそもそもどのようなことかも僕にはわからない。感想が考察が「見当違い」かどうか、誰がどんな基準で判断するのか?

別に、公正公平な絶対者がジャッジをする、などという大仰なものではなく、ガムベースさんが直前に書かれているような「読者が好き勝手書いたとして、作者が他人の感想を読んで「それは違うなあ」と感じることはある、と考えます。僕もある。作者でなくても、他の読者が「この人は妙なことを書いている」と感じることだってありますね」という、「読む人が読めばわかる」程度の違和感があるかないか、ですよ。相対的な知識量の問題です。




レビューは「技術論・構造論的な指摘」だっていいと思いますよ。

そうですね。むしろ、わたしのような高等教育を受けていない人間には「技術論・構造論」を語ることはできませんから、そういうレビュー「も」あってもらったほうが好ましい、というのは事実ですね。

「NaGISA の大先生サマ」は折に触れて「Twitter や実況動画などのひとところに留まらずに流れていってしまうレビューや感想が溢れる時代のなかで、ひとつ自分のレビューのようにまとまった情報量を保ったものが遺っているのも良い」ということを書いています。

わたしも「後世に遺せるものを作るべき」という理屈には賛成します。ただ、それが「技術論・構造論」的なレビューだけでは足らないようにも感じています。やはり(公開時期を大きく過ぎていても)作品に対する理解を深めたいという欲求に応えられるような「場」もあったほうが良いのではないでしょうか。

これは例えば「ふりーむ! の感想用 BBS」や、そこに書かれるコメント程度の(「感動した・面白かった・このキャラクタに萌えた」というような)内容ではダメでしょう。もっと個人の価値観に立脚した濃い文章でなければなりません。とはいえ、別になにか特別なものというわけではなく、作品を読み終えて率直に感じたこと・考えたことを「公向けにクレンジングする」率をすこし変えるというくらいのことなのですが。

ただ、作品内容に深く係わるような文章を公開する場合、「ネタバレ」の問題に直面する可能性が強まってしまうのがネックなのですが。このギョーカイ、ネタバレは、ほとんど禁忌とされているようなところがありますからね。




それと、ガムベースさんが引用された道玄斎さんの「構造論的指摘」の文章ですが、これは「「動物報恩譚」という物語のパタン」を示しているのではなく、「あるジャンルに長く・深く接してきた読者のなかに堆積したイメージ」が同ジャンルのある作品によって想起されたとき、作品単体で得られる感動に、過去の読書体験によるものが上乗せされるのでは? と語っているだけではないでしょうか。

すくなくとも、制作者が自作品のジャンル、「型」を選択するのは、理由がどうであれ充分に意図的だと思うのですが。道玄斎さんが「大量に存在している」と証言しているジャンルをまったく知らないで、自分で「発明」したというのは、ただの無知だしなあ。







件のエントリのコメント欄で「フリーノベルゲームに何を求めるか」について、道玄斎さんに賛同する意見が並んでいるけれど、「人それぞれ」「みんな違ってみんな良い」レベルで味しないな。

いや、わたしも「自分のちっぽけな世界」の外側からやってくるものを望んでいることはおなじはず(「自分と違う価値観や思考。面白い!」「新たなひらめきや感動が生み出される接触点。これこそフリーゲームに期待していることかもしれませんね」)なのだけれどなぜだ。

なんか、「悪心」が足りねーのでは。好かぬ。


あと、道玄斎さん「下手な考え休むに似たり」好きだな。この格言って「堂々巡り」や「負のスパイラル」になりがちな思考様式を戒めているのであって、面倒な問題を回避するための言い訳としては適格ではないのでわ?

この態度が示すとおり、結局、だれもかれもが、ただ無責任ってだけなんじゃね?

だいたい、オマエらがすぐに思いつくようなことの、どこが「難しい問題」「面白い考察」なんだよ。バカが馬鹿のふりして自分を守り、ノミ取り合っている様って、すげーアホらしいし、ダッセエ。



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2014.03.24 (Mon)

ディズニー配給の新作映画 の特番 観ると いつも考えるの だけれど-NOTE

仮にわたしがあと十歳若くて、もっと勇気のある人間だったら、渡米してアニメーション制作に関わるような仕事に就くようなこともできるのだろうなあ、と。

ミュージシャンやデザイナーといった成功者たちの「高校卒業して、なんのあてもないけれど、とりあえず海外」みたいな話を聞くと「行動力ハンパねーな」といつも感心していたのだけれど、そういう人たちとはそもそもの人間の出来が違うのだろうね、やっぱり。







Jasmine さん、わたしも嬉しいです。(わたしなんて……というのはナシにします)

なんか、そちらのエントリが増えていくたびに「性格的にスゴイ似てるなあ」と思うことが多くなりました。それでいて、異なる部分もまた大きいのが神秘です。

Jasmine さんは、わたしなんかよりもずっとずっとユニーク! さらに自らそうであろうとする気持ちも強い。意欲と向上心。溢れてます。ステキです。


さて、最近「なんか背景描いてるほうがラクだわ」とのことですが、それならいっそのこと「背景のみ」の作品なんかいかがですか? それもただの背景ではない、「心象風景」だけの作品です。

これならパースが狂っていようが、現実にない様子だろうが、無問題。さらに「荒涼とした背景のうえに楽しそうな文章」のように、表現の幅もさまざまに広がりそうです。人物画が一切でてこないのに、どこか登場人物の容姿を連想できるようなレベルにまで作品のテンションが高まればサイコーですよね。言うだけなら易いことですが。


あと、裸眼で良く見えないのにガンバっていると、眼にものすごく負担がかかるそうなので、好きでなくとも道具に頼ったほうが良いみたいですよ。

噂では老眼が早まることもあるとか……。ミギャー!



01:23  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.24 (Mon)

個人の 「感想」 は秘めるべきものか-Free Novel Games

作品や、その内容を、じっくりと反芻して、ノベルゲームから「考える事」を引き出したいプレイヤーっていますよね。私の知り合いにもいますw 「多分、作者はそんな事考えてないよ」ってな事でも、真剣に考えちゃう。

下手な考え休むに似たり、ってことわざもありますけれども、そういう人は、頭がいい人が多いんですよねぇ。そういう人にとって、この作品の持つ、「読みにくさ」っていうのは、寧ろ逆にプラスに働くのかもしれません。

まぁ、私は馬鹿で、考えるのがニガテなので、難解な漢字や表現によって、ストーリーをストレートに読み解きにくいという所で、「気になった点」として挙げましたが、こういう作品が出てくるから、ノベルゲーム漁りが止められないんですよw




このように道玄斎さんが自分のことを馬鹿だと書くのは日本的な謙遜で、実際に「確かに馬鹿ですよね」と同意したら、フツーに怒るわな、たぶんwww



「読者によって作品は完成される」のが真であるのなら、道玄斎さんの知人が「作品に書かれている以上のなにか」を(どちらかといえば自らの奥底より)引き出そうとする、その姿勢は正しいことになる。

しかし、一般的に Free Novel Game 界には、作品の内容から大きく 逸脱 発展したような「感想」「解釈」をおおっぴらに開陳するようなことは、あまり好ましくないという空気があるように思う。まさに上記引用で道玄斎さんがいう「多分、作者はそんな事考えてないよ」といった、やんわりとした否定の空気である。

この空気は、例の「敬意」尊重主義に代表されるような、制作者を「刺激」しないようにというプレイヤーおよびレビュアーたちの「モラル」の行き詰まりが生み出しているものであると考えられる。現実として、「公正公平」なレビューでさえ制作者をキレさせる可能性を秘めている。それよりさらに強力な、作品を変質させてしまうような解釈を、赤の他人が横から勝手に公開するなど許されない、ということなのかもしれない。

さらにいえば(客観的に見て)見当違いで底の浅い解釈を自信満々に垂れるというのは、自らのオツムの程度を自分から示すことにもなる。それなら単純に「恥をかきたくない」という人が多いだけのことなのかもしれない。(もっとも、ほんとうに実のある文章を書ける人間なんて Web 世界全体からしても数えるほどしかいないのだから、ヘンなプライドさえ除いてしまえば、自由にバカをやるのはわりと造作もないことではあるのだが)

結局のところ、Free Novel Game 作品はあくまで「制作者のもの」で、その内容をどう捉えるのかも、ある程度、製作者の意向に沿うものでなければならない、というのが、この業界の「暗黙のルール」なのだろう。

であるから、そのルールをマジメに汲んで、レビューのほうもあくまで技術論・構造論的な指摘に留まっている。そりゃあ「評論」としてはそれが正しいのかもしれないが、やれ「文章力がある・ない」だの「物語の流れがスムーズ」だの「このキャラクタが良かった」だのといったことばっかりのレビューが真に読み応えがあるかどうかは疑問である。

作品を次のステージまで押し上げるような「感想」は、不必要なものなのだろうか。




それにしてもガムベースさん。

道玄斎さんとのキチンとした「国交」があるのなら、推測だけでいきなりエントリを上げるようなことなどせずに、御本人に直接確認したほうが手っ取り早かったのではないでしょうかねー。



00:30  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.20 (Thu)

相貌、多面の集合-NOTE

以前 Jasmine さんに「お母さんみたい」と評されて、気恥ずかしいやら申し訳ないやらの気分だったことがある。

リアルのわたしは、この Blog から感じ取れるような人間では、まずない。わたしも(Jasmine さんが自嘲するときに使う)「コミュ障」であるし、もちろん、ともだちも長いこといないのだ。

別に、積極的にキャラを作っているわけではないが、やはり「akino」が「わたし」とは位相の異なる存在であることは間違いない。テキストで出力する際どうしても、自覚・無自覚かかわらず、肉体の立ち居振る舞い以上の「演出」が加えられてしまっているのだろう。つまり「akino」は、どちらかといえば「あたまで作られたわたし」という印象である。


そう考えてみると、例えば「NaGISA の大先生サマ」の Twitter も、おなじようなものだったのではないかと思えてくる。

一般ぴーぽーからしてみると、だいぶ人格を疑いたくなるような「怒れるキリスト者@自称ネトウヨ」全開の Tweet 群(開始後しばらくして急に冷静にでもなったのか、突然アカウントを削除した)も、わたしにおける「akino」のような、本来の人格からは微妙にズレた、加工された一面に過ぎなかったのではないか。

「大先生サマ」が、趣味の Blog で度々、同僚や知人と食事をした様子を綴ったり、そのときに撮った写真を UP したりしているが、そこから読み取れる、周囲の人間から信頼され頼りにされている人物像に嘘や作りはないはずである。

にもかかわらず、SNS でちょっと連帯感を味わったくらいで、あれだけ自意識を垂れ流すまでに「暴走」してしまうのだから、人間というものが恐ろしくなってくる。(まあ、あるいは自制心が働いたからこそ Twitter を辞めたのかもしれないが)

案外、自分自身の運営は Under Control ではないのかもしれない。これ、去年のネタ。



そういえば、昨年、めずらしく「大先生サマ」がこの Blog に反応した際、最後、捨て台詞のように「アイツは嘘吐きだから、特にこどもたちに悪影響がある(から近づくな)」とか、ひとを犯罪者扱いしてくれたのだが、これはなんだか、『明日ママ』に対する慈恵病院の言い分のようだな、といまさらに笑えた。



23:20  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.20 (Thu)

ゴミ屋敷への道-NOTE

今回の引越しでわたしは「とりあえず」ということばを数十回、自ら口にしたり、あるいは母の口から聞いたりした。

引越しまでの時間的猶予のないなかで、「とりあえずアッチ(新居)に持っていてからどうするかを決めよう」という意識でなんでもかんでも詰め込み、荷造りをなんとか終えたわけである。

この「とりあえず」は、要は問題を先送りにするための呪文であって、これによって心理的・時間的余裕を生み出せることは事実である。人生、なんでもかんでもその場その場で即、決定しなければならないわけではない。上手にいなしながら持ちこたえることも必要である。

とはいえ、いつまでも「とりあえず」で未来の自分に丸投げしていては、いつまで経っても部屋が片付かないこともまた事実である。


でもなあ。わたし、ハッキリいって片付けるのキライなのだわ。

モノが規則正しく整っているとか、あるべき場所にぴったりと収まっているとかいう様は好きだけれど、その状態に導くまでの選別作業が退屈で。どうもワクワクしない。

といっても、代わりに片付けてくれる人もなし、あるいは他人に自分の持ち物をコントロールされるのも気に食わなし。ぐももー!

(もうなんか、突然、記憶喪失にでもなんないかなーとか思う)



22:10  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.20 (Thu)

こんな年齢で 「おともだち」 って響きも ないですが-NOTE

Jasmine さん、ありがとうございます

これが面と向かっている間柄なら、相手の呼び方を念入りに確認するのも馬鹿げたことに映るのかもしれませんが、テキストだけの交流だと変なところでこじれてしまうこともあるので、ついつい慎重になってしまいますね。


個人的に、物を溜め込む性分にせよ、いつかは「捨てられる時期」が訪れるものだと考えているのですよね。どんなに大事にしていたものでも、まったく興味が失せて、うんうんと悩まなくても捨てられるときは必ず来ると。とか言いながらも、引っ越しの際に、小学生の頃(!)から使っていた本立てをやっと処分できたのですが。いったいどれだけかかるのかと。効率悪すぎだろうと。


画風のこと。Jasmine さんが、ご自身の絵にコンプレックスがあるというのは、エントリの文面などからも、なんとなく感じ取ることはできました。いちばん身近にいるお連れさんは「萌え」に理解があってゲームも詳しくてという方のようですし、そういう日々の関係性も影響しているのかなあと。

ただ、現状に納得していないからこそ、もっと上手くなろうと努力する気にもなるわけで、そういう意味ではコンプレックスも悪くはないのかもしれません。興奮して寝つけなくなるほど熱中できるものがあるって、なかなかスゴイことですよ。


鼻穴。なんというか、鼻穴を描き入れてしまうと、見た目がちょっと生々しくなってしまうのかもしれませんね。「萌え絵」って、生っぽさをクレンジングして成り立っているようなところがありますから。一時期(いまも?)には「二次元に比べて三次元は気持ち悪い」という反応が出るくらいで、そうとう潔癖なディフォルメと強調って感じです。

(肌なんかもつるつる・ぴかぴかで、ワキ毛とか端から生えてこなさそうですよねwww)

鼻「点」は、縦にぴっと入っていたらそれは「鼻すじ」を表現しているように思います。あと、そこだけライティングを無視した「影」っぽいヤツもありますね。絵師さんによっては、口なんかもすごく小さく描かれていることがあって、あれも同様に不自然に思えたり。口元や唇のエロスを必要としていないのかと。


そのぶん目は異様にデカイってのがお決まりの印象ですが、今日『塔の上のラプンツェル』を観ていて「ディズニー・プリンセスだって目がデカイじゃん!」と感じました。

『Aladdin』 の Jasmine とかと比べると、3D になってからはまずデカイ。「萌え絵」みたくキラキラはしていないけれど、白目は濡れていて、それがくりくりぐりぐり動いて思わず「うわー、デカッ!」と。

ラプンツェル、好きですけれどね。しょこたん歌上手いし。



02:38  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.20 (Thu)

『恋文日和』 も良かった-NOTE



人間は見たいものしか見ないし、信じたいものしか信じない。

かといって、「大切なものは目に見えない」などと説いたところで、実際に見えないものを見ようとしても、大抵は間違うのである。

人生の慰めとは、その間違いの連続のなかにある、ほんの一瞬の幸福に出会うことなのかもしれない。あるいは、そんな慰めもなく、ただ不幸の連続のなかにあっても、その状況に屈しない精神力を見につけることを強いられているだけなのかもしれない。







BPO は『明日、ママがいない』を審議対象外にしたそうだ。

性描写や暴力シーンといった「わかりやすい悪」にはずいぶんと強気だが、『明日ママ』のようなお涙頂戴の「善良なドラマ」は扱いに困るのでお咎めなしということなのだろう。

この様相はスカイマークの「限定ミニスカ制服」の件と似ていて、「まったく問題がないとはいえないが良い部分もある」とかモニョモニョ言っているうちに、いつのまにか核心的な部分から皆の目が逸らされていくようである。あるいはただ、真剣に考えるのも馬鹿らしい、至極どうでも良い話題というだけのことかもしれないが。

それにしても、そもそも、例えば「天地神明」の佐村河内とそのフィクサーである新垣のコンビに「喜んで騙されていた」ような人たちに向けたドラマを垂れ流していたこと自体は罪にはならないのか、という気がしてくる。

抗議が寄せられた当初、日テレの関係者は「話題になってラッキー」とお気楽気分で喜んでいたという話も聞いたが、脚本家や出演者は、自分たちは飽くまで「性善説的な心持ち」でいたことを強調していて、それがまた薄ら寒い。

とはいえ、そんなことを言ったら『夜のせんせい』の内容だって、本質的には『明日ママ』と大差ないということになるのだが、個人的に好きなドラマなので許すwww







オトナが世間に溢れる事柄に関してなにかと「泣き虫」になるのは、さまざまなに変わる立場で経験を積み重ねたことによって共感力が高まるから、という理解の仕方がある。

その一方で、以前ある人が「オトナが涙もろくなるのは、自分のつまらない人生を悔いているからだ」と書いていた。わたしにはどちらも正しいよう思える。

実際、(結局、ほとんど中身を把握してはいないが、DISC に全話を移しているので観返すことは可能である)『明日ママ』を観たら、恥ずかし気もなく感動してしまうのかもしれない。

しかし、自分が「善い」と感じたからといって、それが正しいとは限らないのである。自分が「善い」と信じているものが、結果的に、自分や他人を大きく傷つけてしまうことはありえる。

ココロを動かされるような体験は確かに必要だが、それだけを無自覚に寿いでいると、足元を掬われる気がする。



01:48  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.17 (Mon)

LED の照明が 今宵も 眩しいぜ-NOTE

Jasmine さん、ありがとうございます。すこしのんびりとし過ぎました。


(愛称「Jas/mei」とか考えてみたものの、若干、ほかの読者に対する説明のようなニュアンスが自分自身で感じられて、なんか据わりが悪いので、フツーにおともだちっぽく「Jasmine」さんと呼ばせてもらってもよろしいですか。響きがカワイイし。ちょうど月曜深夜に「Aladdin」を放送しますね)


「築半世紀」というのはスゴイですね。ウチはいわば「バブル期の残りカス」のような物件らしいのですが、それのさらに倍以上の年数ということからすると、Jasmine さんが「部屋が狭い」とおっしゃるのもより切実な印象です。


黒魔術の本! わたしの手元にも似たようなのがありますよwww 文庫ですが、外国で書かれた魔術の歴史本のようなものです。発行が三十年近く前のものなので、古めかしさが逆にレアなように思えたりして。別にさっさと捨てれば良いのに。

あと、ファンタジィ関連の本では、中高生くらいの創作者が嬉々として買い漁っていそう(偏見)な、「天使」とか「地獄」とか「妖精」とか、そういう特定のジャンルに特化した資料系の書籍も残してあるのですよね。とはいえ正直、雑学として消費するくらいしか、いまのわたしには使い道がないものなのですけれど。


なんか、別に希少価値の高い古書とかいうわけでもない、つまらない本であっても、フツーに絶版になっていたりするので、捨てた後で「やっぱり手元に置いておけば良かったー!」と悔やむことになるのが怖いのかもしれません、わたし。リスク管理というか、妄想的な執着というか。

たまにふと、むかしの本の内容を思い出すことがあって、そういうときは無性に読み返したくなるのですよね。それ以外のときは、空間を圧迫するただのゴミのようなものでしかないのですが。


あと、Jasmine さんの画風は青年誌に載っているようなものだとして見ればぜんぜんマトモな線をいっていて、それをわざわざ少年誌っぽい「萌え路線」に寄せる必要もないのではないかなと、いちファンとしては思うのですが。

それと、鼻穴は大事ですよね!www わたし、顔のまんなかにある「お鼻」のすがたこそ美醜をも左右する重要な要素だと思っていて、けっこう他人さまのも気になるので、それこそ「萌え」系のあるんだかないんだか良くわからない鼻はそんなに好きではないのですよねー。







数年間愛用しているガラケーの画面に突如、謎のドット抜けが。

しかも完全に抜け死んだというわけではないようで、増えたり伸びたり、薄くなったり戻ってきたりと安定しなく、邪魔。

なかでつながっている線がアレなのかなあとか、経年劣化の範疇なのかなあとか。



00:26  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2014.03.15 (Sat)

ただいま 強制「断捨離」実行中-NOTE

突然ですが、わたくし現在、ホームステイ中であります。

といっても国内ですが。さらにわりと近場ですが。というか実家ですが。


なんやかんやいろいろあって、また母子三人で同居する羽目になってしまいました。母の言うところの「終の棲家」は、いままでのなかではいちばん良い家なのですが、わたしの部屋割りは(荷物が多めにもかかわらず)最も狭い部屋という仕打ちも手伝って、だいぶいまストレスになっています。(お風呂は新しく、シャワーの水圧も強いのですが)

とはいえ、今回の引越しを人生の仕切り直しの良い機会だと捉え、この家を安住の地とすることなく、早く(例えグレードがどれほど下がろうとも)独り暮らしを再開できるようにガンバッていこうと考えています。


それにしても、本来のスケジュールどおりに事が進んでいれば、二月の末には新生活を始められていたらしいのですが、先の大雪で工場が潰れたとかの煽りでトラブル続出、なかなか入居が遅れ、さらにおとうとクンの発案により「インターネットは無線にしよう」となり、それなら無線 LAN アダプタを買ってこなければならないけれど天気に恵まれないとかメンドくさいとか、なんだかんだで半月近くも経ってしまいました。

まだ片付けなんて終わっているはずもなし、これから生活のリズムを取り戻せるまでどれくらいかかるのか先は見えません。というかバンバン捨てていかないと、ただのゴミ溜め部屋になってしまう。以前にも書きましたが、本(の情報)なんて古くなっていくだけなのだから、迷わずポイしろよ、とか思っていても、実際、手にとってしまうとどうにも惜しくなるという。ちなみにこの癖は遺伝のようです。母の目の前にも大量のダンボールが。

しかし、いままで有線ばかりで「無線ってどうなの?」と疑っていましたが、Blog のエントリを書くくらいのことなら、まったく問題ない使い心地でほっとしました。ケチらずにそれなりの子機を購入して良かったです。



23:33  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)
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