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2013.12.30 (Mon)

もう いくつも 寝なくとも 2014-NOTE

今年いただいたコメントを年初めまで遡って見ると、「え? これって今年だったっけ?」と驚かされる。(有尾さんやエコーさんとの仲が深まっていく時期だった)

Free novel Game 関連では、ほとんどなにもしていなかったようなものだったわけだが、それでも他人さまとの出会いには恵まれたといって良いだろう。

日常的に「感謝感謝」と繰り返している人(の真意)を疑ってしまうわたしだが、しかし、ことばにして表さないと想いは伝わらないということもまた事実である。



今年、コメントを書き込んでくださった方、ROM で見守ってくださった方、

みなさん、ありがとうございます。

(「作る作る詐欺」は、詐欺ではなくなるように努めます)




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2013.12.30 (Mon)

「ハピネス注入!」って ビンタでも 張る気か-NOTE

教育番組のごとき「善きメッセージ」の投げつけ方に目眩を起こしそうな昨今の「プリキュア」、Next decade である第11シリーズは、その名も『ハピネスチャージプリキュア!』。

……なんか長タルいわ! 『Max Heart』や『S☆S』の頃のノリか? 略して「ハピチャ」か!

(でも、そういえば『ハートキャッチ』なんてのもあった。最近、短い名前が続いていたからの違和感というだけかもという思いが。なんか恥ずかしい)


あと、長いで思い出したのだけれど、AKB48 の長たらしいタイトルのアレ、正式名称の発表時、ついでに略称もすでに決められていて、それがどうにも引っかかった。

ファンがいろいろ略称を考えたなかでいつしか定着した、というならまだしも、あらかじめ略称が用意されているのでは、タイトルは端から「出オチ」レベルの重要度ということになるじゃん。

正確に読まないと怒られる人たちの身にもなれよ、付けたヤツは面白いと思ったのかもしれないけれどさ。







mei さん、絵を描く

描き手の理想形が「三次元(写実)」と「二次元(萌え)」のどちらにあるのかでも変わってくるのかと思いますが、上下の絵とも、顔に比べて身体が小さく、バランスが悪いように感じます。

(とはいえ、聞いたはなしですと「二次元」寄りの萌っぽいオンナノコは、現実よりも肩幅狭めに描かれることが多いそうです。きっと、そのデフォルメの上で、さらに最適のバランスに調整されているのでしょう)

正夫さんとヨシ子さんの助力で、ポージングはもちろん、基礎的な人間のプロポーションを上手く捉えて、全身の佇まいまで表現できるとステキですよね。シロートがエラソーにすみません。

それにしてもヨシ子さん、あたまデカくないですか? 萌え仕様?







「MUSIC STATION Super Live 2013」を画面で観た感想。miwa が可愛かった、終わり。

もちろん、それだけではないけれど。きゃりーのぱみゅぱみゅさんは衣装のせいもあるのかもしれないけれど、カワイイよりカッコイイという印象だった。表情とかが。あと、あゆの見た目も(別の意味で)スゴかった。なんか人間、肉体と精神の年齢が合致しているのって重要なのかな。

そういえば E-girls の『Follow Me』の作詞が藤林聖子さんだったと気づいたのだけれど、漢字と英字、著作者名の表記は提供相手で変えるのかな。それともクレジットを入れる側の都合? まあ、どうでも良いわな。

Follow me! Follow me! follow me! Follow me! Baby...



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2013.12.24 (Tue)

わたしは視覚的な人間なのかもしれない-NOTE

魅せてなんぼ・見られてなんぼのモデルさんはもちろんだが、アスリートやデザイナー、音楽家や料理人など、さまざまな職業の「一流」と呼ばれる人々は(カメラマンの腕も良いのだろうが)すがたを晒している、ただそれだけで、強烈なメッセージを突きつけてくるものである。わたしたちのような凡人は、その圧倒的な雰囲気に「人間の美」を感じるのだろう。

そしてわたしは、その「すがたが纏うオーラ」は、程度の差はあれ(手作り特有の剥き出し感が強い)Free Novel Game にも宿るものだと思っている。それは「文章・視覚・聴覚」といった表現の集合によって成り立つ「物語世界そのもの」のなかの美だといえる。

個々のどの要素が優れているか、あるいはどういった類型に属するのか、といった評価基準にわたしがあまり関心がないのは、たぶんその「すがた」が好きだからなのだろう。他人に対するのとおなじように、例え欠点があるにせよ、相手をまるごと愛せるのならそれで良いのだ。

この「すがた」という感覚的な評価を明確に言語化し、読み応えのある文章に落とし込めればサイコーなのだろうが、人間ができていないわたしにはそんな芸当は出来そうにない。

そして結局、無難なレビューが勝つのだ。







『Lightning Returns』、一周目クリア!

ラスボス・第四形態、「ラ系を並べた魔法のみ連携+オーバークロック二回」でノックアウトできました。ありがとう。

物理攻撃連携(スパークブロウなど)は、アビリティのステータス的に難易度が高めだったのかもしれない。数回も無駄な努力かよ (´・ω・`)


Ending 、mei さんが「わかりやすく語りすぎ」というのも頷けるものだった。

まあ、この作品は前二作から続くシリーズの総まとめであるから、単体の独立したタイトルというよりは「ファン向けのサービス」の側面も強かったのだろう。それにスクエニの自意識って、いつ頃からかあんな感じだし。それにしても、日本人は「絆に呪われし者」にでもなったのだろうか。

しかし、『XIII』の派生タイトルからナンバリングに昇格した『XV』にもつながっているように思えるオチだったねー。あと、ファングとヴァニラを主役にしたスピンオフも作ってよ。



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2013.12.23 (Mon)

Fast love, fast kill-NOTE

『Lightning Returns』。

ラスボス(第四形態)をノックアウト(弱点を突くことで一定時間、ダメージが通りやすい状態にできる)できない。すでに向こうの攻撃をほぼ完璧に捌けるようになったけれど、ダメージがロクに入らないので勝てない。

Wiki とか読んでも、わりとサラッと「ノックアウトしてね☆」と書いてあるので、それほど難しいわけではないはずなのになー。第二形態の「あの攻撃」中はノックアウトできるようになったのだけれどなー。スパークブロウは間違ってないはずなのになー。オーバークロックがいまいち信用できないなー。

いちおう装備品や能力値を引き継いで初日からやり直す、「強くてニューゲーム」相当の救済処置もあるのだけれど、なんか「ゲームに負けた」感が気に入らない。とはいえ、ラスボスと延々殴り合っているだけなのも飽きるし。困った。


あと、これはどうでも良いことだけれど、創作上の存在とはいえ「神様にケンカを売って倒しちゃう」という展開は、一神教を信仰している方々からするとどうなのだろうか? という問いが浮かぶこと自体が無知の顕れなのだろうか?







年の瀬だー、とか寒がっていたら、ふと思った。

例えば数年前、仮面ライダーやスーパー戦隊の世界でもキャストさんが「初の平成生まれ」ということで話題になったりしていたが、いまとなってはそんなの当たり前なわけだ。ウチのおとうとくんもイイ年齢だ。

そして、おそらく数年もしないうちに 48 とかの若いアイドルに「2000年以降生まれ」世代がフツーに現れ、そのうち年上のメンバーが「20世紀生まれ」という理由でイジられる時代が来るはずなのである。

……ウボアー!! YO-RU-TO-SHI-NA-MI, around 30 !!

なんなんだよ、ちくしょー! だいたいジブリの『ぽんぽこ』、タイトルでは平成を謳っているけれど、すでに「平成感」なかったぞ、この前あらためて観て異世界っぷりにビックリしたわ!







なんか、わたしって Novel Game というか小説的表現を「それほど愛していないのではないか」と思えてきた。「ガーン!」と衝撃的な小説に出会いはしているけれど、そこまで量を読んできているわけではない。ちょっとした文系小学生やラノベ好き中学生に完敗するくらい。

だから「NaGISA の大先生サマ」や道玄斎さんのように、作品の傾向を分類して体系づけたり、小説的に「ここの展開が!」とか「ラスト泣ける!」、「キャラクタが活きてる!」などの理由で嬉々としたりすることもない。作品全体をしての「すがた」を重要視しているからなー。

そうやって突き詰めていくと、そういう人間が他人さまの作品に言及するべきではないのではないかなーと考えたり。疲れてるな、きっと。


あと、「大先生サマ」がまーたニコ生でノベゲを語るそうだが、あれって「時間を共有する」ことが目的で、内容は二の次三の次なのだよね? いくら「推薦」をつけた作品があるといっても、そこまで喋ることないだろ。リスナーの反応に中毒気味だわ。







mei さんへ。

「目が大きい=カワイイ=萌え」という図式も確かにあるのでしょうが、どちらかといえば、デザイン的にどうこうというよりも、描き手が「これがわたしのカワイイだぜ!」という信念のもとに本気の念を込めて描いたものが、どこか他人の琴線に触れ、結果「可愛く見えてくる」のではないかなー、と思います。(念が強いと表情の作り方まで変わってきたり)

まあ、流行に乗ってしまうのもひとつの手ですが、なんか無理だと感じるのなら、自己流を突き詰めるほうがステキだし、ストレスもないはずです。mei さんは「すきまの時間」を狙わなければなりませんし。


家族、いろいろと大変なのですね。文言の上では男女ふたりのあいだで完結する事柄のはずなのですが、現実はそうとも言ってられませんよね。

なんか、実家族にせよ義理家族にせよ、お互いの人生観、「ノリ」が合わないとシンドイだけのような印象があります。血のつながりよりも、コッチのほうが重要というか。

義理家族の場合、愛という理屈を超えた結びつきがある当人たちはともかく、その周りの人間は関係ないといえば関係ないからなあ。しかも、そのわりに感情は強い。まあ、愛を起点にしているこそ、それでも上手く立ち回ろうと努めるのかもしれませんが。他人事っぽい書き方ですみません。


エントリ、3桁に突入しますね。以前の Blog では、あまり文章は好きではないといったことを書かれていましたが、いまはとてもイキイキとされていて、読んでいるこちらも嬉しい限りです。



02:19  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.12.20 (Fri)

「醜さを愛せ」-NOTE

現代日本人にとっては「寛容さ」や「許し」こそが大きな試練のようである。

わたしは、積極的な悪を「正義」、消極的な悪を「破滅」と定義したい。結局のところ、正義とは「善の執行」などではなく(しばしば後暗いところのある)自らの行いを正当化するための、便利な方便に過ぎなかった。

もちろん、消極的な悪のほうが積極的な悪よりかは幾分マシだろう。破滅的な振る舞いは自分自身や近しい数人の人間を不幸にするだけだが、正義の名のもとに揚々と行われる事柄は、結果的に共同体そのものを破壊する恐れがあるからだ。しかも、その咎の責任を取れるものは、事が終わった後にはもうだれもいない。悪質な時限爆弾のようなものである。

正義感にかぶれ、社会や他人に関心が「ありすぎる」人々が跋扈する、この現代日本においては、まさに「醜さを愛する」ことこそが重要なのかもしれない。愛するとはまさに、積極的な悪と対極な位置にある行為だからである。


それにしても「好きな人に認めてもらいたくて」突っかかっていたのだとはなー! 裏切りの多いドラマだったから、バスでの別れのシーンでなんとなく読めちゃったよwww









どうやら道玄斎さんと「かめソフト」の人が同一人物であることは確定的らしい。「大先生サマ」が証言していたし。

道玄斎さんは、過去の恋愛の失敗を(それなりの頻度で)引き合いに出すことがある。その「厭な経験」自体には「ご愁傷様」と同情もする。

しかし、過去のつまずきをこじらせるあまりに、「女性には母親のような無条件さで包み込んでもらいたい」、しかもできれば「男性である自分を脅かすような『智慧』を持っていない(伊従嬢子がいうところの「真っ直ぐさ」を体現するような)少女に」、と夢想する(様を堂々と開陳する)のは、ちょっと塩っぱくないだろうか。

「女性に裏切られて、なんてカワイソウなボク」というセルフイメージは、本人的には気分が良いのかもしれないが、若干どころではなくサブい。なんか尊敬できないよなー。







例えば、某番組で宮本亜門さんと「ゆず」の人が喋っているのを観たのだが、亜門さんはあきらかに「愛の人」という印象がある。人生に対する復讐心などはなく、世界と他人と音楽を愛し、それらに積極的に関わってやろうという意志がバシバシ伝わってくる感じ。

世界には、こういう「愛の人」が確実に存在していて、わたしは彼らと、わたしたちのような「底辺のゴミクズ」との違いはなんなのかと不思議でならないのだ。



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2013.12.19 (Thu)

足跡さえ (誰もいない) 見えなくても (世界の果て) 信じた道を行け-NOTE

ヒーローソングってポジティヴ・メッセージのカタマリだ、基本的には。

もちろん、楽曲に与えられた「使命」を鑑みればそれで良いのだけれど、一方で、この程度のものに癒されてしまうのもどうなのかという気もするのだ、オトナの自意識からしてみれば。(全然オトナになりきれていないわたしがいうのもなんだが)

アッパーなノリ(だけ)のヒーローソングが大好きなことには変わりないけれど、気恥かしさもまたつきまとう今日この頃。世界の複雑さ、深遠さ、そういうノイズに毒されているのかな。どっちがノイズかな。


「現実 (いま)」という風は なにを伝えるため (おまえのもとに吹く?
強く 強く Blowing now)

明日が 夢が まだ見えなくても (その限界 精いっぱい 生きていると いえるなら)


『JUST LIVE MORE』、ひとりで歌うのはちょっと難しいし寂しい。ちょうどこの時期、みんなで宴会芸のごとくワイワイ熱唱が良いのでは。わたしはトモダチいないけどな!

それにしても『響鬼』の途中からの付き合い、もう何年だ。年明けの『ジェネ天国』、年代別ヒーロー特集だぜ! 平成ライダーにも触れるらしい。フジの見解、恐ろしいぜ! やっほ~い!

あと、最近「こだまさおり」さんや「三重野瞳」さんが気になる。『アイカツ!』と『PR:RL』の楽曲の作詞者ですがなにか。







わたしも新しい PC がほしいです。メイン機希望ですが。

深刻な話、「ふりーむ!」のリニューアル後、ウチの XP さんではメッチャ重いのですよねー。数作品分のページを開いただけでノロノロ・アクセスになるのを眺めて、ただあたまを抱えるしかないというか。Vector も当然、重い。

まあ、ノベゲを起動させることくらいはできるのですが、その前段階の DL が億劫という。どうにかしたいって身銭を切るしかないのですけれどねー。


広いお部屋って良いですよね。狭いのはともかく、もので溢れかえっているのはツライです。

わたしの家族は(あきらかに母の影響で)必要でもそうでなくても、とにかくものを積んでおく傾向があります。なんかゴミを捨てるちょっとした手間がメンドくさいようです。

わたしは(自分のなかでの優先順位の低いものくらいは)意識的に処分するように心がけていますが、母の住む実家にいくと、圧迫感と閉塞感で気が滅入るほどです。閉所恐怖症気味のわたしとしては恐ろしいです。


あと、それほど好きでもない親戚にまで、キチンと年賀状を送るだなんて、mei さんはスゴいです。ちゃんと社会人していますよね。



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2013.12.16 (Mon)

わたしも 原子還元処理 してくれ-NOTE






この作品、セミプロというかプロというかの作だそうである。

もちろん、無料で公開されているのだから Free Novel Game と称しても差し支えないのだろうが、ほんとうにシロート以上の技術を持った集団の作品となると、意味合いが変わってきてしまうような。

そんなの、どうガンバっても個人制作者に勝ち目がないし、かといってじゃあ身の丈でガンバっている個人製作者を特別扱いしろというのも違うし。

ただ、リンク先のレビュアー陣が絶賛しているとおりに評価が広がっていき、この作品がギョーカイ内でのヒット作になったとして、それでこの作品の制作者たちが「わたしたちのスター」になるのかというと、そうではないよな。結局、ちょっと離れた「別世界の人」でしょ、おそらく。

どうでも良いけれどさ。大長編を読む体力なんてねーよ (´・ω・`)







安堂ロイド』、気色の悪いおはなしだったにゃーwww

というか、どうにも甘ったるい「恋愛もの」と、バンバン人が死んでいくような「シリアス SF」とでは食べ合わせが悪いのではないか。

あと、敵役がダメ。というか DQN 的な暴論を振りかざす敵って超絶ダサいよな。結局あれは「倒されるための悪」だよ。主人公側の正当性を高めるため、視聴者に「癒し」を与えるためのフィクション。ある面ではそれが正しいのだろうけれど、わたしは嫌いだにゃーwww

それだったら、笑顔を崩さずに淡々としているアツロウ・ワタベのほうが怖いし、メッセージ性もある。まあ、それはわたしが「人間の善」よりも「悪」のほうを良く考えているからかもしれないけれど。

善と悪、どちらが先に人間社会に存在して、どちらが後から「蔓延った」のか。この問いを想起させない「軽薄な悪」はニセモノだにゃーwww

あと、若女優陣がドイツもコイツも…… (´・ω・`)



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2013.12.15 (Sun)

ヒラたい和-NOTE

政治の場での権力闘争に負けたとしても、党を追われるくらいで即刻処刑されるわけでもないのだから、確かに日本は「良い国」だよwww







結局、私達は、或る作品の由来が何であれ、作品それ自体でしか、作品を評価し得ないって事なのかなぁ。「フリーサウンドノベルレビュー 『純白の街、灰雪の僕ら。』 : 久住女中本舗」

……そんなのあったりまえだろ! スケベゴコロだだ漏れ。馬鹿馬鹿しい。


良くできたノベルゲームがあるとして、別に作者はそれを創り上げるのに心血注いでいたわけでもなく、「出せるから出した」とか、「何となく作ってみた」とかであった場合、何かモヤモヤしたものを感じませんか?

或いは、作者が、ブログや Twitter では、「全力で書いてます!」とか、書きつつ、心の中では「ほんとは、テキトーに書いているだけだもんねー!」と思ってたりする場合、ともすれば評価の一つに組み込まれてしまう「作者の情熱」とか「努力の姿勢」とかってのは、全くアテにならない、って事になりますよねぇ。



「製作者には創作に対する情熱と努力を惜しまない姿勢が求められるはず」などと「正論」を説いているつもりかもしれないが、結局これはただの押し付け、さらには相手(の感情)を消費したいというだけのこと、ゴシップ好きのババアやスポーツ観戦で「感動感動」と喚いている連中と大差ない。

制作者が「ほんとうに」なにを考えて、どれだけの思いで創作したのかなど、エスパーでもない限り(Blog 等をいくら眺めたとて)解りっこないのは当然。だから受け取り手は作品に表象された事柄からなにかしらを読み取るしかない。

そしてそれは厳密にいえば製作者のものではない、作品という「写し鏡」のなかに現れる「受け取り手自身の」心理や嗜好に対面するということなのだ。

このことはまさに、自分にとって好ましい作風にえらく食いついて「吟醸」を与えている、彼の行動によって裏付けられている。読書は所詮、個人的な体験だ。製作者の「情熱や努力」の量など関係ない。そんなものを求めること自体が間違いである。(だいたい、トンガっていたり嘘をついていたりしたからといって、それがなんだというのだ)

こんなにも厚かましく、かつ無自覚であるから、自分を喜ばすためだけのキモい物語しか書けないんだよ。おはなしにならん。他人を導きたいのならしゃんとしろ。

(もちろん、評論行為にしても「いっぱいガンバったからエライ」なんて書いているヤツは馬鹿だろ。そうやって各々の幼児性に閉じこもっているから「わたしは傷ついた!」とツマラナイ争いに発展する。オトナになれとか無意味な注文はつけないが、もうちょっとちゃんとせえよ)







クロコーチ』終わっちゃったねー。

「真相がわかったところで、なにが解決するわけでもない」という、現実世界の虚無感がバッチリ漂っていた感じ。オチとしては清々しくもあったけれど。

結局、最後まで追いかけていた「さくらふぶき会」も、巨大な警察組織のなかの、ほんの一部分に過ぎなかったということだろう。そうなると「くたばれ、怪物」のセリフの意味も変わってくるというか。

なにはともあれ、味のあるオヤジばっかりで終始ヒリつくようなドラマだったよ。Free Novel Game ではこういう設定や展開も、俳優さんの存在自体で物語る雰囲気のようなものも味わえないからねwww

あと、毎回かかる主題歌のイントロ、次週に向かって盛り上がる感じがサイコーだった。ドラマのサントラのほうかと思っていたけれど。







『JUST LIVE MORE』の初回限定「特製ミニタオル」盤、3,750 Yen ってバカだろ!

(「CD Only」1,200 Yen、「CD+DVD」1,800 Yen、ふたつ合わせるより高い!)

湘南さんには申し訳ないけれど、どうかしてるぜー! 結局買えんかったわ (´・ω・`)



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2013.12.14 (Sat)

虚無的思考停止、ただし楽しいほうが良い-NOTE

このご時勢、人々の耳目を集め、数千万にも上る医療費渡航費もろもろを集める難病の児童がいる一方で、まったく健康ではあるが、日々の充分な食事を確保することだけができずに餓死していく児童もいる。この不幸を是正することはできるのか。

良く社会問題を指して「現代社会の歪み」などと形容されることがあるが、しかし有史以来、どの地域どの時代においても、人間の社会が真球のごとく整っていたことなど一度もないだろう。人の世は常にいびつ、そもそも高次的な理想を成す術などあるのか。

人間は(一部を除いて)必ずしも「完璧な世界」を望んでいるわけではない。多くの一般ぴーぽーにとっては、親しい間柄の幾人かが幸福であるかどうかが重要なのである。たまたま不遇なものが目に入れば、それが他人であっても同情くらいはするだろうが、余裕がなければ関心を持ってもいられまい。

真理は炎に例えられる。頼もしくもあり危うくもあるチカラを意味する。太陽がなければ地球上の生命はことごとく死滅するだろうが、強い太陽光に貫かれれば人の身は破壊される。幸福もまたおなじように、平穏と安寧のためにはココロを血みどろにするほどの闘争を必要とするのだ。

気まぐれで中途半端な温かみ程度では人間は救われない。しかし、その身を浄火で焼かれることにも耐えられない。世界から悲劇が一掃されないのも当然である。







mei さん、身の上を詮索するような品のないマネをしてしまって申し訳ないです。ただ、ぼんやりと予想していた通りではありましたwww

以前 mei さんは自分は「ひとりっ子」だと書かれていました。その場合、仮に両親と実家で暮らしているのなら、同居人を「家族」ではなく「両親」「父・母」と呼ぶのが自然です。それに「ひとりっ子」なのに「義妹」がいるというのも(ある条件下では)おかしな話ですし。そんなわけで謎というほどでもありませんが納得は出来ました。わたしからも「羨まー」になりますがwww

でも考えてみれば、わたしもヒトふたりで住むには難しい広さの部屋にしがみついているわけですし、わたしたちの世代で個々のプライヴェートを確保できるほどの充分な部屋数を求めるのは、勝ち組コースでもなければ無理ってものですよね。

それに、わたしも母や弟の前で仮面ライダーやスーパー戦隊が好きとか、よう言わんです。mei さんの恥ずかしさとおなじ。なのに理解が足りませんでした、すみません。

お連れさんが「ガンダムガンダム」言うて、しかもそれが昨今の作品であるのなら、イラスト描きくらいなんてこっちゃねえ! と思ってしまいがちですが、でも、「チチやケツは良えわい!」という表情で一心不乱に描き込んでいる様を見せられたら、確かに心中複雑かもしれませんねwww

あと、N ゲージってミニチュア版の鉄道模型ですよね? なんか凝りだしたらとてもスペースが足りないような気もするのですが、他所でどうにかするものなのでしょうか。







ある種のニヒリズムに基づいて紡がれることばもまた虚しい響きに満ちている。

わたしは、logic によって拓かれる事柄が必ずしも冷たいものになるとは思わない。

とはいえ批判したいわけでもない。あゆがだれと結婚するとかいまさらどうでも良い。

あと紗栄子って「表現者」やったんか!? (大脱線)



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2013.12.13 (Fri)

霧中のひと-NOTE

個性偏重主義の重圧が、むしろちょっとした差異を排斥する方向に人間を向かわせている。

善意のつもりで皆の「その他大勢」のなかに埋没することへの恐怖心を煽り立てているのが「みんな違ってみんな良い」。

mei さんが他人との違い、自らの唯一性に固執してしまうのは現代社会の呪いのせいである。







いま、いちおう独り暮らしを続けている、そういう人間の無知かもしれないけれど、mei さんには自分のプライヴェートな空間がないのかなあ、とちょっとした疑問が。

まあ、自作品が掲載された雑誌が郵送されてきたとき、本人の了承も得ず、家族が勝手に開けてしまったと以前書いていたから、なにかとグイグイくる家風なのかもしれないなあ。ほぼ放任だったウチでは考えられないかも。

もちろん、身内バレしないように神経を使っているのは理解できるけれど、そこまで秘密主義的に振舞わないといけないというのは、ちょっとどういうことなのか想像がつかない。







ちょっとエラソーな物言いをしてしまった手前、申し訳ない気持ちだったのだけれど、mei さんがなんだかやる気で前向き、わたしも嬉しい。


すばらしい!

今度のはあまり期間を焦って完成させようとするのはやめた。
すごく大事に作りたいから。
画面を色々と工夫しようと思ってます。
斬新!私すごい!なんてのは思いませんよ。
何処かで見たものが、私の中で消化され、変わった画面ができるといいな。








AKB48 のタイトルなっがい新曲、完全に「出オチ」の感が。

あるいは「アナウンサー・ナレーターいじめ」のようにしか。



02:44  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.12.13 (Fri)

劇中の サウジアラビアの諺 って創作だよね?-NOTE

Legal High』も終わっちゃうなー。

それにしてもしかし、ドラマ内で繰り広げられるドタバタを大笑いしながら楽しんでいる一方で、実際の法廷の場であれだけ大騒ぎしたり、長々と演説をぶったりするわけがない、という冷静な印象がちらとあたまを過ぎることも否めないのだが、それでも「面白いから良いのだ」と納得してしまう。たぶんこれが「嘘でエンタテインする」ということなのだと思う。

創作された物語とは十中八九「嘘」である。だが、その嘘は現実の上に立脚している。逆に現実という土台なしでは「嘘」は成立し得ない。それは多くの受け取り手にとって、共感の拠り所のない「理解不能な代物」になってしまう。

『Legal High』においても、曲がりなりにも法律を主軸にしたドラマなのだから、それをそのままひっくり返すような展開はありえないだろうし、また、作中で扱われる事件や訴訟も、あきらかに現実の「あれ」や「これ」をモチーフにしていることが(この現代日本を生きるものなら)容易に理解できるように作られている。

それに、ドラマ内に登場する市井の人々のさまざまな振る舞いは、どこまでも現実的である。「フツーの人間」が持つ「フツーの欲望」と、その欲望によって巻き起こされる事柄の顛末までをキッチリ描いているから、このドラマは(例え嘘まみれであっても)面白いのだ。

(まあ、法廷ドラマで「決着がつかない」ということはありえないわけだけれど)

そう考えると、Free Novel Game においては、読み手があたりまえに感じる「リアリティの有無」という、現実世界から投げかけられる視点よりも重視される「ノベゲ的なリアリティ」というものがあるのだとする(某ニコ生で伏字にされてる意味がわからないが)「D 玄斎」さんの主張は、やっぱりおかしいと言わざるを得ない。ノベゲ的な「お約束・決まりごと」という「嘘」の上に「(作品世界の)現実」が成り立っているというのでは、まるっきり「順序が逆」になってしまうからだ。

結局それでは「わかる人だけにわかれば良い」というような、内輪ネタに閉じ篭ってしまうような作品しか生み出せなくなるのではないか。まあ、他人さまが勝手にやっている分には外野が口出しすることでもないのだろうが。







『Lightning Returns』のこと。

オープンワールドを謳い、一見、自由度の高そうな見た目ではあるが、実態はあいかわらずの「一本道ゲー」であった。そのちょっとしたベールで隠されているだけの道筋を引っ剥がして明らかにしてしまえば、プレイヤーに選択肢などないことがわかる。(「なんかザコが手強い」=「他のメインクエストに行け」という風なこと)

ただ、時間制限(と成長に影響)がある分、一般的な RPG では漫然と取り組みがち(探すのも面倒)なサブクエストの類にも、積極的にぶつかっていけるところは楽しいのだが。「スケジュール管理ゲー」「忙しぶりゲー」。

あと「ボスが強いよう」といつも半泣きなのだが、周回プレイすれば楽になるのかな、継承できる要素があるのか(説明書を読んでないから)知らないけれど。いまはスコア「1」の山よ。



00:08  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.12.07 (Sat)

この惑星に 最後の マンデラヴ を-NOTE

『Lightning Returns』を買ってもうた。

今回は TUTAYA 系で。15 percents off の上にプロダクトコード付きで、まあ! お得!

mei さんに、ゲームハードの最新世代機についてエラソーに講釈垂れておいてアレだが、movie 部分はやっぱりキレイだな。ただ、これは PS3 作品になってからずっと感じていたことだが、なんでポリゴンモデルになると「テカテカ」しているの? と。けっこう落差あるよなあ。

あと、ライトニングの髪の上のほうがブラマヨ小杉さんのごとく透けているのも気になる。

とりあえず、時間制限のあるなかで最終日までいけるのか心配。ココロ折れるわ。当然、ヴァニラにはまだ会えないぜ!







「血液型別性格判断」に科学根拠はないわ! というごもっともな批判を承知している一方で、しかしわたしも「B型」だというwww

それで、mei さんが制作の途中で(悪い言い方をすると)ブン投げてしまうことがあるのは、わたしにも思い当たる部分があって、なんというか「感情が持続しない」のだわ。

例えば、長編に取り組んでいる制作者さんなんかは数ヶ月、下手をすれば数年以上もひとつの作品と向き合っているわけだ。そうするなかでは当然、作品に込めた想いのようなものもを、常に抱き続けていなければならないはずである。そういう、超長期的な感情の持続力が、わたしには乏しいのだ。

それこそ mei さんにとっての『高校教師』のように、あるものに対する想いが何十年も変わらないという状況が、わたしにとってはだいぶミステリなのである。どんなに好きでもぜったい飽きるでしょー? と。

なんというか、わたしは「花火型」なのだよなー。ハマっているときはドカンドカンとウルサイくらい盛り上がっているのだけれど、そのうち打ち止め、小休止状態になって、また別の花火が上がるというか。

高校受験のとき、塾の大学生講師に(日々の積み重ねが大事な受験生のくせに)「明日は明日の風が吹く」と人生観をのたまって、呆れられたことを思い出すぜ!www







Free Novel Game で他人と差をつけたいのなら、ぜったいにだれも取り上げないような題材に手をつければ良いと思う。大衆受けより局地的な「癒し」を狙えば良い。

Free Novel Game 作品って「芯」の部分(で語られる事柄)は数種類程度しかなく、それを覆うガワのヴァリエイションで差別化されているだけ、という印象がいつまでも消えない。ノベゲを作りたがる人ってみんな、そもそもの出発点がわりと似たり寄ったりなのだろう。「NaGISA の大先生サマ」の好物である「感動もの」だって、そこに限定してあれだけいろいろと作品を追い続けられるということは、そういうことだと思う。

(ここから、気分を害されたらすみません)厳しい言い方をすれば、mei さんの扱う「人生の暗き面」「運命」「孤独」「生と死」といったテーマは、特段に珍しいものでもない。

過去の Free Novel Game 作品でだって掃いて捨てるほど描かれてきたことだろうし、それこそ「野島伸司」「森田童子」という強大なオリジネイターがすでにいるわけだから、その方向を目指すということはすでに「他人が歩んだ道を進んでいる」だけともいえるだろう。

もちろん、どの道を行こうが個人の自由、他人がどうこう口出しすることでもないが、他人のつけた足跡をさらに踏みしめるというのなら、「オリジナリティかもん!」と意気込み勇まないほうが良いと、わたしは考える。神経すり減らすだけの徒労に終わらないとも限らないからである。

あと、ゲーム的に練り込まれた上での高難度や、キチンとした読解力を要する難解さといった「地に足のついた不親切」なら問題ないが、読み手にストレスしか与えないような演出やインターフェイスデザインなどは控えたほうが良い。それはもう自己満足ですらない「あきらかな失敗作」だから。ここらへんを履き違えると大変。

(ここまで書いといてアレだが、「テーマ」と「作品としての表現方法」は別物だわな。若干、混同してしまった。でも、mei さんはどちらでもオリジネイターになりたがっているとわたしは感じている)







漫画的表現について。

mei さんは文章が苦手で、かつ画力向上に積極的なのだから、人物の感情の動きやシーンそのものを絵の表現力で伝えてみてはどうかと考えました。いわゆる「一枚絵」「イベントスチル」の進化形です。

『真章散華』で、だいぶ細かくシーンを分断して、その切り替わりの度に絵を挿入していましたよね? あの作品では下手をすれば「ブツ切り」のようになってしまっていた演出を、もっとスムーズに「物語の流れ」のなかで効果的に利用してみるのです。

たくさんのことばを尽くすよりもさらに多くのことを、ひとつの画のチカラだけで伝えられるのが漫画(というより視覚表現)の強みですからね。「特別なイベントだから、ここは一枚絵」という従来的な使用法ではなく、積極的に「絵で語ってみる」のが(いまのところわたしが思いつく)漫画的表現ということになるでしょうか。

まあ別に、漫画のコマ割りをそのまま再現してみるのも面白そうですが。それこそ「絵しかない」という逆転の発想で。まあ、それだと「スマホで漫画を読むのとなにが違うのだ」って感じになりますが。







そういえば昨日、ザ・タイガースの再結成コンサートがあったそうですが、mei さんとしてはどんな感じなのですか?



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2013.12.02 (Mon)

(Make it real loud)-NOTE

M ステでの LADY GAGA のパフォーマンスを繰り返し観ている。

やっぱりわたしは歌を聴くのが好きだし、Music video やアニメや特撮の Opening 映像といった「視覚と聴覚に刺さるような刺激」が大好きなのだ。

そういうわたしからすると、Free Novel Game も「もう『歌』で良いんじゃない?」という気分になってくる。これは別に、作品中に歌入りの Movie を挿入したいとか、背景で歌ものが流れ続けるとか、そういう意味ではまったくない。

一般的なノベゲのフォーマットから外れている、それこそ「歌」のようにしか思えない異質な作品があっても構わないではないかと考えているのだ。内容があきらかに短かろうが、文章を削ぎ落としすぎて抽象的世界に足を突っ込んでいようが、美しいと思えればそれで良い。

たかだか 4分ほど、歌詞の字数制限もあるなかで、それでも歌のなかに(音楽自体のチカラも合わせて)ひとつの物語を宿すことができるのだから、制作者が知恵を尽くせば、Free Novel Game のまだ見ぬ可能性を切り拓けるはずだとわたしは信じている。


(「もう歌になっちゃえ」とか考えていると、こちらのコミュ力不足でケンカ別れのようになってしまった「とおりすが Z」さんの言う「視覚表現と文章表現の融合」という理想形について、より深い理解を持てるかもしれないと思った。「正統派ではない、良いハミ出し方」という点では似たようなものだから)


結局、「ノベルゲーム」というフォーマットに拘泥している人々は、小説的表現の延長線上でしかノベゲを見れなくなっている。あくまで作品の軸となるのは「文章」だというわけである。

もちろん、フォーマットというものは無意味に湧いたわけではなく、先人たちが遺した数多くのアイディアや「発明」から合理的に組み立てられ成り立っているものであるから、それ自体を否定してしまうのは、あまりにも傲慢である。当然ある程度の「敬意 ()」は払うべきだろう。

だから、フォーマットに準ずる作品の存在も認めた上で、さらにそれ以外の新しい価値観をも受け入れられるような、ユルいギョーカイになってくれれば良いのだが。まあ、模範的作品を「推薦」とか取り上げているうちは難しいのかね。「推薦された作品のほうが価値が高い」と信じたいのが人情だものねー。


それにしても、ギョーカイ的にも「ぼっち」のわたしは、例えどんなにいけ好かない、つまんねえノリであっても、他人さまがキャッキャウフフしているのを眺めていると、なんだか自分の価値が疑わしく感じられて、うっかり死にたくなってきてしまう。

じゃあ止めれば良いのにと自分でも思うけれど、まあオバケ屋敷に入るような感覚だ、きっと。




それと、以前テレビで芸人さん(だれかは忘れた)が、クラブかどこかでスピーカーの前に陣取って「音楽を浴びている」のだと言ったらしい女子を笑い者にしていたのを見たのだが、わたしは彼女が間違っているとは思わない。

音は空気中を伝わる振動なのだから、イヤホンでちまちま「聴く」のではなく、身体全体で「感じる」のが正しい楽しみ方に決まっている。映画館とか気軽に行けてサイコーである。

まるで歌を浴びたかのような高揚感を与えてくれる Free Novel Game 作品が増えたら良いな。



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2013.12.01 (Sun)

フジの コドモ向けドラマは つまらない-NOTE

金曜日、『長谷川町子物語』を観た。

90年代後半、サザエさんの文庫シリーズが半年以上をかけて発売されたことがあり、ウチの(ケチで忘れんぼうな)母にしては珍しく、その文庫シリーズをすべて買い揃えた。

当時、中学にも行かんとダラダラ道を踏み外していたわたしは、わけもなくそれらを手に取り、暇に任せて読み倒していたものである。だから、すくなくともその文庫シリーズに収録されている話なら、ほぼすべて把握していると断言できる。

それがどうかしたのかといえば、アニメ版を観ているときに「これは原作からのエピソードだ」とすぐ察知できるくらいのものでしかないのだが。

そんなわけで、町子先生と原作版サザエさんにそれなりの思い入れがあるわたしとしては、なかなか面白いドラマだった。海老蔵のはなしは「本物キタwww」と可笑しがるところだよな。


で、「NaGISA の大先生サマ」の(定期的に続けていくらしい)ノベゲのニコ生は、しかたないので「副音声」的に耳に入れるだけにした。ほぼ予想通りの内容だったから、それで充分だった。

それにしても「大先生サマ」、下関辺りの「お故郷ことば」がどういうものかは知らないけれど、しゃべりだけ聞いている分にはコッチの人とそう変わらない印象である。別に地方にへんな偏見を持っているわけではないが、メディアのチカラってスゴいってことよね。







mei さんへ

(過去のエントリから推察するに)学生時代は「わたしのことをわかって!」という思いのほうが強かった人が、時間を経た今日では「別にわかってもらわんでもエエわい!」と強気にトバしていけるようになった、その移り変わりに人生のなにかしらを感ずる次第です。

マンネリですが、「そりゃ、これだけの多作ぶりならそうなっても仕方ない」と思う一方、有名な作家先生だって、デビューのころから似たようなテーマをぐるぐる回しているだけとも聞きますので、あまり気になさらなくても良いのではないでしょうか。なんか「職人っぽい仕事ぶり」とでも脳内変換したりして。


いわゆる「ノベゲ的な内容の充実」の根底には、今年風にいうところの「おもてなし」の精神と、あるいは mei さんのいうところの「自己満足」にまかせてデコレイトした誰得気味の「過剰さ」のふたつがあると思われます。

他方、mei さんは自身の「萌え」から呼び起こされた「ある運命」を活写しているだけ(それ以上でもそれ以下でもないわ!)とお聞きしましたので、上記したふたつに乏しいとしても不自然ではないと思いますよ。一点集中主義といったところでしょうか。


それと既存のフォーマットを超えた「なにか」ですが、mei さんは画力の向上に対する強い想いがありますし、過去にマンガを描いていたようなことも記しておられましたので、それならアプリケイション上の画面のなかで「漫画的な表現」を再現してみるのはいかがでしょうか。

いままで文章表現の副次的要素でしかなかった絵を、むしろ作品の「中心」に据え、絵のチカラで世界を物語るのです。この逆転現象を上手く成り立たせることができれば、これ以上にないほどの「Only One」と呼べるものになるのではないでしょうか。

ただ、そうなると当然、作業量のほうも増えてしまいますので、家族に隠れてコッソリと制作しなければならない mei さんにとっては難易度が高く、いまいち現実的ではないかもしれませんが、将来的な展望のひとつとして夢想していただけると幸いです。

(なんかグイグイ出しゃばってしまってすみません)


あと、わたしなんて通信制でロンダリングした「ウソ高卒」なので、学歴のことを考えると死にたくなります。キャンパスライフ☆は「フジの夜」って気分でしかありませんが。

赤門のそれは「東大 合格発表 廃止 - Google 検索」だそうです。



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