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2013.11.29 (Fri)

7-ELEVEN の応募券 あと一枚クレ-NOTE

滝クリのある意味で鮮烈な「例のアレ」のおかげで「おもてなし」なる美徳が急に跋扈するようになって、季節以上にお寒いニポンである。

TDL/S のキャストみたいなのが世のなか溢れ返ったら、シャレにならないっての。







mei さんにとって創作は、そうとう「尊い行為」なのだな

ただ残念なのは、フツー、制作者の都合が受け手側に伝わることは少ない、ということだろう。生活を共にして、四六時中顔を見合わせていても、他人の胸の内を完全に把握することは叶わないわけだから、ちょっと作品を読んだくらいのレベルじゃ無理ゲーだわ。

それに、mei さんが執着心を持って幸福を追求しているように、そのナニガシもまた(おそらく復讐心から)自分の幸福に向かって突っ走っているはずで、その様をモラルや善悪で裁くことはできるけれど、それってあまり意味ないからなー。

まあ「悲しい色やね」ってこと。


あと、わたしも「執着」について考えることがあって、例えば「いま欲しいもの」について、それは「ほんとうに必要なのか?」ということを突き詰めていくと、「すべてなにもかも不必要」というところまで逝ってしまって、それこそ生きている意味自体を見失ってしまうので、これってヤバいなと思った。

質素堅実より、俗世に溺れてしがみついているほうが楽しいよ。







今期の低視聴率ドラマ『夫のカノジョ』『家族の裏事情』をどちらも観ているわたしはどうすれば良いのか?www

こういう「家族もの」ってウケないものなのかな。そういえば『東京バンドワゴン』もあった。なんか合わないから追いかけてはいないけれど。「人情大家族」とか好きじゃないwww

しかし実際、『夫のカノジョ』は毎週追いかけるほどのフックがないとは思うけれどさ。雰囲気が幼稚だし、作り込みも甘いというか。端から 10回かけるまでもない内容じゃないの? と。川口春奈さん始め、出演者さんは好きなのだけどさー。

まあでも、すでに 7回で終わったドラマもあるし、あんなに面白かった『DOCTORS 2』も全8回だったわけだし、放送回数が削られて製作側は悔しい思いをしているだろうけれど、だからといって作品をきちんと完成させられない言い訳にはできないわけなのだから、最後までガンバってほしいなと思う。いや、もう終わってるのかな。







あいかわらず安定のジャニドラマ枠、今期は『49』。

それにしても野島伸司って台詞回しがキザだよな。なんか 90年代を引き摺っているというか。

氏が活躍した時代を鑑みれば当然だけどさー。



02:01  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.27 (Wed)

単一色でノッペリん、かつ絶望-NOTE

政治家や官僚たちは当然のことだろうけれど、作家でも他の職種でも、一線で活躍している人々は(たまにテレビに出てきたときの略歴で)名のある大学の卒業生であることが多い現実を目の当たりにすると、やっぱりあたまの良い人が世のなかを廻しているのだなあ、と感じる。

この Web 世界にもあたまの良い人はいくらでもいて(しかも実生活とは違い)そういう人たちの言動を ROM する機会も多いのだから、得でもあり損でもありである。


思うに、あたまの良い人は本を読むのが「上手い」印象がある。実際、月に十冊以上も書籍を購入しているらしい方がいて、しかもそのまま積んでいる様子もないので、どういうことなのだろうと不思議に思っていたのだが。

おそらく本を読むのが上手い人は、一から十まで順番に内容を追っていくわけではなく、全体のなかの要点だけをパッと掴み取ることができるのだと思う。それだけで充分に書籍のなかで語られていることを理解できるわけだから、当然時間はかからないし、一冊にかける所要時間が短ければ、結果として読書量も増えるというわけである。

そうやって、次々と知の扉を開き続けていく人を見ていると、ただ漫然と読書をしていれば知識が蓄積されていくわけではなく、その知識を有効的に活用できる素養がなければ無意味なのだと感じる。きっと、本を読んでも馬鹿は治らない。


それにしても、個人的にあたまの良い人は楽勝で世間を渡り歩いているようなイメージがあったのだが、実際はどこまで行っても肉の檻のなかに囚われているのが人間というもので、どうやらどれだけあたまが良くても世俗的な悩みから自由でいられるわけではないようである。

なんなら、あたまの良い人のほうが世界のさまざまにアクセスし理解できる分、馬鹿よりもさらに深い部分の苦悩を抱えることにもなりかねない。最近は「あたまの良い人も大変なんだな」と同情にも似た感傷に浸ることも多い。

このご時勢、平穏な人生を送ることがどれほど難しいミッションなのかと、もはや絶望する術もないのである。



01:49  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.26 (Tue)

味をシめたな 生放送-NOTE

ガムベースさんとは、(広義の)Free Novel Game 作品について、「もう面白ければ、なんでもこだわらずに受け入れるよねー☆」と協調したのだが。


他の娯楽と同様に、Free novel Game にも、総当たり的だった古き ADV の時代から『弟切草』に始まるサウンドノベル、そしてノベルゲームへとジャンルが変化していくなかで培われ、脈々と受け継がれてきたフォーマットがある。

政治的な色分けは趣味の領域である Free Novel Game には相応しくないかもしれないが、そのフォーマットに極力従おうとするのが「保守」、逆にフォーマットからはみ出そうとするのが「革新」と区別できるだろう。当然、わたしは後者になる。

Free Novel Game は、世間一般の娯楽、例えば小説や映画、マンガなどと比べれば、ほとんど始まったばかりと言って良いほどの新興勢力である。さらに厳密にいえば、商業や同人界隈のノベゲ作品ともまた微妙に性質の異なる(「商品」ではないから)ほんとうにニッチな世界だ。

そこまでニッチな世界なら、このまま「ガラパゴス化」してくれないかな、というのがわたしの願いである。先人たちから受け継いだフォーマットに忠実な作品があること自体は良いが、それ以外の「わけわからん作品」も同様に受け入れられるような環境になってほしいのだ。


ところで、「ノベルゲーム」という名詞は「ノベル」と「ゲーム」というふたつの語から成り立っている。「なにをいまさら」と思われるかもしれないが、これはすなわち「ノベルゲーム」が「ふたつの異なる娯楽」の性質を内包している証左である。まさに「名は体を表す」というわけだ。

まあ、こんな常識の再確認などどうでも良いのだが、要は「ノベル」と「ゲーム」のあいだに生まれた子なのだから、どちらかに似ていようがまるきりそうでもなかろうが、それがその子の特性だと、受け手側も柔軟に対応するべきだと言いたいのだ。

どうも「ノベルゲーム」というと、小説的なシナリオを背景音楽や効果音などを用いて電子紙芝居として演出したものを想起する層が多い気がしてならない。

とはいえ、例えば「複数の結末を選択肢で制御し振り分けるシステム」を持ったノベゲを「ゲーム的」だと評するのも若干、違和感があるのだが。

どちらにせよ、わたしは制作者を扇動するような立場にないので、ただ時代が変わるのを信じて待つくらいしかできないのが歯痒い。わたしはどうせ、そんな器でもないからねー。


あと蛇足。「ゲーム」(この場合は「ビデオゲーム」)の持つ「面白さの本質」はいまも変わりないとは思うが、それを支えるハード面の進歩によってビデオゲームはさまざまな表現方法を獲得してきた歴史がある。

「ノベルゲーム」もまた「ゲーム」の子であるのだから、その挑戦的な姿勢からもっと学んだほうが良いと思う。







「NaGISA の大先生サマ」の『ゆめ空』リメイク版

画像を見ると「http://www.nagisanet.com/yumesorar.png」確かにキレイなのだが、一方でどこか没個性的で味気のない画のようにも感じる。

長く創作を続けている制作者は、自身が多くの経験を積んでスキルアップしたり、コネクションを広げることで他の表現者と連携を取れるようになったりで、だんだん作品(の特に見た目)が洗練されていく傾向がある。

しかし、そうやって見た目キレイになることは、どこか画一的な方向に「画が統一されていく」ということでもあって、そうなると結果、制作者が本来持っていた味(これは少人数制作の限界や制限によってもたらされる、ある意味での「シロート臭さ」)が損なわれてしまうことにもなる。

まあ、機能性を向上させたり、あるいは Good locking にすることで耳目を引き DL 数につなげようと努力するのはもちろん悪いことではないので、どちらが正しいとも言い難い問題なのだが。

実際に動いているところを見るとまた印象が変わることもあるのだろうが(ことばは悪いが)これもまた一種の「商業の劣化コピー」化と言えるのではないかなあ、と感じた。







夕暮れの屋上で散髪」……、なんだかわたしも画が浮かんできました。シブいッスwww

ビルとか学校の屋上の、それも真んなかあたりで切れば、たぶん迷惑もかかりませんし。逆に縁のところだとスリラーのクライマックス的なことになってしまいますし。

こういう良さげなイチ推しのシーンに向かって、その前後が「捨てエピソード」にならないように上手く盛り上げられれば、シナリオ方面の評価もきっと高まるはずだと思っています。

とはいえそうなると、すべてアドリブで乗り切るのはちょっと難しくなるので、計画的にプロット組んだりしなければならなくなりますが。

でもまあ、mei さんは「過去の読書からの経験値」から、徐々に「物語的な流れ」がどういうものかを掴んできているように見えるので、いらんことかもしれませんけれどねー。

あと「登場人物を大事に想いながら描く」というのも、ステキなことだと思います。無理なくシナリオの内容を熟慮するきっかけになりますよね。思い詰めることなく、メンドくさくなることもなく作品が良くなるなら Happy ですよね。



00:05  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.24 (Sun)

ヒザ打ったイタタ-NOTE

さっき。夜。自転車。

車通りがなかったので、ズルをしてやれと車道を横断しようとしたら、分離帯の縁石があったことを忘れていてそのまま突っ込んだ。身体だけあちらの車線に飛び出して、たぶん、そこに車が来ていたら死んでた。(車のライトがあったら分離帯に気がついていたはずだけどな!)

あぶねー! 運が良かった。冬で良かった。着込んでいたから大したケガはなかった。

たぶん十年くらい前、寝不足のまま遠出して、ほぼ無意識のうちに(舟を漕ぎながら)自転車を漕いでいたことを思い出した。あのときは線路沿いの柵に突っ込んで「車道に出てたら死んでた」と肝を冷やしたけれど、これで二度目の「たぶん死んでた」体験。

みんな、交通ルールを遵守して、安全運転をココロがけてね! でないと死ぬよ☆







やっぱ「先輩」は嫌がられたなー。チラとあたまを過ぎったのは正解だったなー。まあ、同世代ということには変わりないので「さん」づけに戻すことにする。mei さーん。


以前、ある方が「人間は忘れるために書く」というようなことを書かれていて、わかるようなわからんような、といった記憶だったのだが。

mei さんが、自分の作品(の特にシナリオ)について「テキトー」だとか「すぐ忘れる」だとか強調するのは、それが事実であることはもちろん、根本的に、皆が思い描くいわゆる「創作」とは別の精神的ステージで動いているからなのではないか、と思えてきた。

つまり、どちらかといえば「日記」に近いものなのだろう。日々の生活のなかでのさまざまな感情(mei さん風にいえば「萌え」)を物語というカタチで具現化しただけ、という。

それならわたしにも覚えがある。この Blog に出てくる、ゴチャゴチャとした思考の残骸のようなものは、まさに「思いつき」を書き留めたものである。過去のエントリを読み返すと自分でもさっぱり理解できないことがあるが、それでもそれを記した瞬間には、そうしなければならないだけの意義が確かにあったのだ。

mei さんの言う「なにか」には、ノベゲ作品という「体」から創作活動が出発しているのであろう「小説書き」制作者との「意識の違い」も含まれているように思える。そしてまた、だからこそ一般常識に組み込まれた視点からのなんやかんやとした指摘が嫌なのではないだろうか。

まあ、「もう周りの評価とかシラネ!」と若干、迷いも吹っ切れたようでなによりである。


あと、やっぱり『Lightning Returns』ほしいかなあー、とか、わたしも思っていますが、最近米欧で発売され始めた次世代機のものと比べれば、PS3 / Xbox360 の「映像美」なんてスッカスカに思えてきますよ。情報量の密度がダンチなのです。ハードの転換期特有の虚しさ。







それと、『XIII』からの「ヴァニラ推し」のわたしとしては、またあきらかに出番少なそうで納得いかん。みんなみんな、ライトニングばっかりよう。そんなにイイ女かッ!

でも、伊藤かな恵さんが新キャラの声を担当しているそうで気になる。努力することならだれにでもできるー!



02:14  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.18 (Mon)

戦闘作業大好き 『Wiz』ゲー派-NOTE

録り貯めて放置していた『のんのんびより』を観た。

想像していたよりかは面白く、視聴に耐え得る出来だったが、しかし毎週追いかけるほどでもないように感じた。田舎を舞台に、精神年齢の低そうなオンナノコたちが、わいわい遊んでいるだけのおはなしには、あまり興味を持てないというのが正直なところである。

つまり、作品が悪いわけではなく、ただ、わたしの好みとは合わないというだけのことだ。


こういう個人の嗜好からくる好悪の問題を Free Novel Game に引き寄せてみると、制作者さんは自作品に対する「悪くはないが、好きでもない」といったような「複雑な」評価をどう受け取るのだろう、と考えることができる。

現実を見渡せば、「作品の出来と個人の好悪は別」といった理屈を素直に受け入れられないのもまた人情、といった印象が強い。良いことも悪いことも、自分の信じたいように捻じ曲げてしまうのが人間というものだ。だから、思っても見ない軋轢を生むこともある。

「NaGISA の大先生サマ」のレビューを読んでいると、作品の難点、いや「改善すればさらに良くなる可能性を秘めた部分」に関して言及するときのやたらと回りくどい言い回しを用いた指摘を眼にする度、わたしにはそれが不健全で不誠実な態度に思えてならないのだが、しかし、上記したような人情の難解さを鑑みれば、「大先生サマ」なりのリスクヘッジもやむなしと、同情にも似た印象を得ることもある。文尾に(爆)とつけてしまう感性は未だに理解できないが。(あ、「爆」とか「汗」を用いて発言のインパクトを和らげようとしているのか。姑息)


それにしても、『のんのんびより』の主題歌を担当している「nano.RIPE」って、10年くらい前から幾度か、TGS の帰りに海浜幕張の駅前で路上演奏していたのを見かけたあのバンドだと思うのだけれど、いつのまにか Lantis の所属になっていて、多くのアニメ作品などに楽曲が起用されているそうで、チラ見程度で妙な感慨、「へえ~」と思った。

パッと見、いや「パッと聴き」、ジュディマリ時代の YUKI みたいな感じだなあ、とも思った。







mei さん先輩へ。

ツクールに代表される RPG エディタ製の作品は、その自由度の高さから、生粋の RPG の他にも、戦闘要素のまったくない ADV から、直接の操作すら必要ない「電子紙芝居」のようなものまで、さまざまな形態のものがありますよ。

もちろん、作業量が多くて面倒なことには変わりないでしょうが、文章のみの表現に飽きてきた頃に、新たなステージとして、ちいさなキャラクタがちまちま動いている作品を作ってみるのも面白いかもしれませんね。まあ、だから放置プレイもムダにはならないのではないでしょうか。

でも、ゲーム自体が得意ではない mei さんが、自作品を「ゲーム」だと周りに認識されるのはなんかイヤ、という気持ちは(ゲーム好きのわたしが言うのもなんですが)わかる気がします。「そもそもゲームってなに?」という疑問が拭えないというか。枠にはめられたくないというのも、そういう気持ちからでしょうか。



23:16  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.17 (Sun)

夜にも なお 暗い星-NOTE

「幸福の追求」だの「復讐心」だのと考え込んでいると、あまり Happy な気分にはならない。

こうなると自分自身のことも疑わしく思えてきて、例えば「NaGISA の大先生サマ」のレビューとその方法論のほうがまったく正しく、逆にわたしの発信している主張はすべて無意味なものなのではないか、とかあたまに浮かんできたりする。

(実際、彼のほうが知識量や人生経験の多いことは認めざるを得ない事実である。別に「本の虫」だからといって、目も開いていない役立たずもいるのだろうけれども、なんか楽しそうだし)

ひとつ確実に言えることは、わたしは世界のことをあまりにも知らなすぎる、ということだ。所詮は知的な後ろ盾のない放言にすぎないと重々承知しているからこそ、ときに自分のことすら信じられなくなる。

まあ、あまりこういうことを書いていると、わたしのことを信用してくれている友人たちに申し訳が立たないので止めるが、どこまで行ったらこんなことに煩わされなくなるのだろうか。







そしてこういう気分だと、大衆が気持ち良く生きていけるのなら、どんなに「ヒドい嘘」でもないよりはマシなのではないか、といったことも考える。「欺瞞」とか「偽善」とか難じることは容易いが、それがなにか新しいことを生み出すのか。

しばしば正義は「復讐の道具」になり、正当性は「争いの火種」になる。それらを声高に叫んだところで、世界は好転しない。先鋭化された意識が社会を圧殺していく。

無知であることもそうでないことも、どちらであれ、さほど違いのないことなのかもしれない。どう転んでも、相応に傷つかずには済まされない。

「被災地のコドモたちを救う」などという美談に酔う一方で、隣の部屋の赤ん坊を餓死させているのが、わたしたちの現実である。なにもかもぜんぶぜんぶ、というのは不可能だ。

眠い。



01:45  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.16 (Sat)

暖房 ケチりたいけど 寒死ぬ-NOTE

真面目に自分の考えを書き出そうとして満足できた試しがない。

だから伝わっている気もしない。

というか、過去の自分の文章は読むに耐えない。


自分の知的能力の低さが恨めしいでござる (´・ω・`)







こういうことを口外するのはアレですが。

日本の中高生が着ているあの制服は、画一的、没個性的であるがゆえに誤魔化しが効かず、より着用者の身体的特性を鮮明に浮かび上がらせるのだと思う。

ひとことで言えば「ダサいところが良い」「ダサいからこそエロい」のでわ。

おなじ制服すがたでも JC と JK を見比べると「おなじ生き物か?」って思うときがある。おなじダサでもステージが違う。中学にだってオサレなコはいたはずなのになー。

ちなみにわたしはブレザー派です。たぶん、90年代以降の「瘴気」に当てられた結果でしょう。

セーラー服は「昭和(世代)のエロ」って感じですよね。『ごちそうさん』で再現されていた大正期の女学生のほうがいまとなっては Cool ですけれどね。ルーズもまだ絶滅したわけではないようですよ。



あと、話を聞くに、どうやら mei さんは同い歳くらいか、ヘタすりゃ歳下っぽいですね。

それにしても mei さんは(良い意味での)「過去志向」というか、わたしとは根本的に異なる感性を持たれているようで、そういう部分が輝いて見えるのかもしれないなあ。

わたしは、過ぎ去っていったものを愛でることよりも、これから先に現れるであろうなにかしらに期待し追いかけていきたい性質なので。だいぶ軽薄だなーwww

『スラムダンク』はぶっちゃけ、一度読んだら充分な内容ですよねー。



03:31  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.16 (Sat)

ネメシス より賜りし 業-NOTE

自分の周りを見渡してみると、「結婚なんてもう失敗するのは当り前」という諦観めいた印象しかないわけだが、しかし、世のなかには円満に結婚生活を継続しているカップルも確かに存在しているわけである。こういった人間の運命を二分する決定的な「なにか」の正体を、わたしはずっと追い求めているのかもしれない。


さて、その探求の道のなかで、なんとなく思いついたことだが、対人関係のなかで人間が示す攻撃性の源泉とは「復讐心」なのではないだろうか。

この復讐心とは、特定の個人に向けられる仇討ちのような感情ではない。人生のなかでの挫折やら不満やら未だに解決できない心的な傷などから立ち上る、漠然とした「外的世界そのもの」に向けられる復讐心である。

人生、歩みのなかで突き当たる問題にいちいち決着がつくわけではない。日々の生活のためにとりあえず受け流したり、知らずのうちに背負ったりした葛藤や苦悩が渦巻いているところに、なんらかの外的刺激が加わったとき、外向きの発散として攻撃性が表れるのではないだろうか。

(その結果、例えば Free novel Game 作品を Dis ったりするようになる)

つまり、憎悪や嫌悪の対象の後ろ側には自分自身の鬱屈した感情があるのである。これは他人を写し鏡にした「自分自身への攻撃」だといっても良い。他人を攻撃するものは、自分自身の存在を最も呪っている。だから(どこまで行っても自分自身を殺せないゆえに)過剰な行動にもつながるのである。


正直に告白すれば、この「無差別的な復讐心」というものを、わたし自身が飼っているという自覚がある。いわばわたしもまた「復讐者」なのだ。

だから、最近わたしは、自分の怒りが社会的なものなのか、あるいは「復讐心からの攻撃性」に過ぎないのか、判別できなくなってしまった。もうあまり、自分の怒りというものを信用しなくなってしまった。







Nemesis は本来「義憤」の女神だそうで。

そういった意味では『Revenge』のエミリーはまさに「現代のネメシス」ということなのかな。

まあ、個人的にネメシスといえば「ネメシス・ハイロゥ」だけれど。世迷言をー!



03:01  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.15 (Fri)

あなたも 吉里吉里に 乗り替えるのね-NOTE

前回、リアリティとは「その読み手が共感できる、物語のなかの現実的な振る舞い」のことだと書いたが、とはいえ、リアリティのために現実のすべてを踏襲する必要はない。読み手を癒すためには嘘だって利用しなければならない。

例えば(特に洋画の)恋愛映画では、終盤になんやかやですれ違いが起きることがある。これが現実での出来事なら、そのまま状況を改善できずに恋愛がダメになってしまうことだって充分にあるのだろうが、映画ではやっぱり、最後には障害を乗り越え、ふたりで抱き合ってハッピーエンドを迎えてもらわないと観ているコッチだって気持ちの持って行きどころがないわけで、そこは上手くやってもらわないといけない。

あるいは「真っ直ぐさを体現した JC に母性を見出しながらの純愛はっぴ~☆」な物語にサッパリ共感できなかったわたしだが、大きな外枠としての「だれかを好きになる」という「現実的な振る舞い」はあるので、その他のほとんどが嘘でかたどられていたとしても問題ない人たちもいるのだろう、きっと。「大先生サマ」とかな。

このように、書き手には「現実と地続きの事柄」と「気持ち良く癒させる『おもてなし』の嘘」のミックスの巧さが要求されているのかもしれない。


……このようにって、どのようにだよ。大して例挙げてないのに。







いまさらながらに『Gatchaman Crowds』の後半を一気観した。

そのまま White Ash の『Crowds』をリピートし続けてノリノリなわたしである。

あの Opening 映像もスーツデザインも本編のヴィジュアル面もサイコーだわ。

しかし、別に嫌いなわけではないし、まさに「Crowds」というテーマに則った「癒し」のための嘘なのだろうとも思うけれど、ちょっと大衆というものに希望を託し過ぎな、危険が香る終わり方だったかなあ。

孤独なものがどれだけ寄り集まっても苦しいだけだろうし、集合知がひとりの人間の決断を超えることもないと、わたしのようなものは思うのよ。



02:38  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.14 (Thu)

本当は怖い 幸福の追求-NOTE

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という宮沢賢治のことばは有名だが、わたしはこれに異を唱える。「例え世界ぜんたいが幸福でも、わたしが幸福でなければ意味がない」。生命の目的とはただひとつ、唯一の個人である自己の幸福の追求のみである。


「幸福」について考え出したのは『Monster』を観てからである。恥ずかしい話だが、mei さんにとっての『高校教師』のように、わたしに天啓を与えてくれた作品であるといえよう。

劇中、主人公のアイリーンは連続殺人の果てに死刑囚にまで行き着くわけだが、彼女は最後まで自分の信じた「幸福」のために行動し続けた。誤って凶器の拳銃を見てしまった善良なおじいさんに対して泣きながら謝罪して、それでも彼を殺さなければならなかったのは、恋人との生活を守るためだった。また、アイリーンも罪悪感に苦しめられたし、赦しのことばに縋ろうとしたこともあったが、それでも自分の幸福を手放そうとはしなかった。これは並の精神力ではない(皆に見下されてはいるが「道に立ち続ける娼婦ほど強い人間はいない」といった独白がある)。

アイリーンは恋人のセラヴィとの口論中、「自分は善人で、神を裏切ってもいない」といった発言をするのだが、これは偽りではないと思う。自分が置かれた状況のなかで精いっぱい足掻き、幸福を追求し続ける姿勢は正しいとしかいえない。

一方、アイリーンの元恋人であるセラヴィは(劇中のセリフからもわかるとおり)「だれかが自分を幸福にしてくれるだろう」といったような依頼心の強い女性だった。アイリーンと比べれば中途半端な人格ともいえるわけだが、それはまた、中途半端であるおかげで死刑囚にならなくて済んだということでもある。(わたしには、セラヴィのすがたは「一般的な善人」の限界を示しているように思えてならない)


ここまで読んで「他人を不幸にしてまで、自分が幸福になろうとするのはおかしい」と感じられた方もおられるだろう。だが、そもそも「幸福」というものは「道徳的な善悪を超えた領域にある」のだ。究極的には「このわたしが主人公であるわたしの人生において、わたしが」幸福であれば、それで良いのである。

例えば最近、地上波で流れている海外ドラマで『Revenge』という作品がある。過去、自分の父親を無実の罪に陥れたセレブたちに少女が復讐するという物語なのだが、セレブというからには復讐のターゲットは身寄りのない老人などではなく、社会的地位も影響力もある「投資顧問会社の経営者」や「次期大統領の噂も上がるほどの政治家」といった面々なわけである。当然、彼らの周りにはたくさんの人間がいて、ある意味での運命共同体となっている。ターゲットが社会的に失墜すれば、その混乱に巻き込まれることは免れない。

もちろん、主人公は聡明な女性なので、そこらへんの因果関係も理解しているはずだが、それでも父親の仇を討つため、容赦なくターゲットを追い詰めていくのである。これが「道徳的な善悪を超えた幸福の追求」のカタチである。

犯罪だろうが暴力だろうが欺瞞だろうが裏切りだろうが不誠実だろうが、人間世界に溢れるすべての事柄は「幸福の追求」あってこそなのだ。どんなゲスだろうがカスだろうがビッチだろうが、幸福を求める意志だけは聖人とも変わりないのである。

例え精神的に疲弊して「死にたい死にたい」と苦しんでいる人間であっても、絶望しただけでは心臓が止まらないことからもわかるとおり、精神の外側にある肉体は生きること、すなわち幸福であることを選んでいる。等しく例外はない。あるいは「諦める」ことですら、これ以上の状況の悪化を防ぎ、すこしでも幸福に近づこうとする足掻きなのかもしれない。


だがもちろん、幸福の追求の果てに「実際に幸福になるか」どうかは、また別の話である。というか、大抵の人間は道を間違え、手痛い結末を迎えることになるだろう。間違いのない人生などありえない。そして取り返しのつかないこともある。

だから「幸福の追求」とは、「この世にはきっと幸福というものが存在するに違いない」と信じて行動する、その様子でしかないのかもしれない。実体もない、確証もない、それでも幸福を求め続けるのは、やはりそれが生命の目的であるからなのではないだろうか。

(ちなみにアイリーンは最後、「(だれがなにを言おうと)この世の中心は空っぽだった」という事実を「発見した」のだと思う)

人間性のすべては幸福のなかに隠されている。わたしはそれが見てみたい。







高校教師』、名前は知っていますが、当時のわたしは小学校中学年くらいだったので、さすがに印象はありません。でも、mei さんの創作の背景にこの作品があるというのは、ものすごく納得できたり。

しかし、10年を経て観た続編にも満足できるというのはスゴイなあ。いまの時代には、さすがになんかマッチしそうもない気がしてならないですけど。なぜなら……







アンモラル香しい『高校教師』で思い出したけれど、「コドモもオトナも楽しめる」「ヒトを大事に思ってる」「そして自由で夢がある」でおなじみの BPO の存在がウザい。

というか、このスローガン、押しつけがましいにもほどがあるのですけれどお~!?



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2013.11.14 (Thu)

リアリティとは 共感力 である-NOTE

わたしも Free Novel Game 作品の感想でリアリティがあるとかないとか書いているわけだが、いざ「リアリティってなに?」といわれると、自分でもなんとなくのイメージで使っていたように思えてくる。

物語とは「書き手の脳内で解体された後、主観というフィルタを通して再構築された現実」のことである。そこには必ず「物語世界における創造主」である書き手の都合や意図が入り込む。本来的には「嘘」であるし「本物」でもない。

しかし、物理法則を捻じ曲げることなど朝飯前の物語世界においても、決して捨て置けないものがある。それは「共感」である。物語世界が現実と地続きでなければならない理由はそこにある。

人間は共感する動物である。そして共感がなければ感動もない。他人さまのココロを動かすためには、物語世界のなかにも「現実的な振る舞い」がなければならない。この「現実的な振る舞い」があるからこそ、舞台が「ファンタジックな異世界」だろうが「地球から何千万光年も離れた惑星」だろうが問題なく物語に入り込めるわけだ。

もちろん、この物語の持つ共感力は広く一般受けするものから、ひどく局地的なものまでさまざまあるわけだが、仮に共感力のまったくない物語は、それこそ宇宙人の書いた理解不能の文章となってしまうわけだから、書き手は「嘘をついてでも」読み手に共感されるように努めなければならなくなる。まあ、その「宇宙人の作文」にすら共感できてしまう人間がいるのが人の世の恐ろしさではあるが、それはあくまで例外、一般化できる話ではない。


このように、リアリティとは「その読み手が共感できる、物語のなかの現実的な振る舞い」のことであるわけだが、これは読み手の背負ってきた人生や生育環境、所属する国家や民族によってバラバラに異なるもので、そういった意味では「絶対的な指標はない」ともいえる。

だから書き手のほうも、「リアリティがない」と指摘されたからといって、それを間に受けて悩む必要はそれほどないのかもしれない。ただの経験不足から出たことばかもしれないし、そもそも、わたしたちが見ている世界がすべておなじであるとは限らないのだから。

ということで、わたしも自分の信じる「リアリティ」を、例え生き恥を晒すことになろうとも追求していくことにする。「NaGISA の大先生サマ」の物語世界はリアリティがないー! の耳ー!



00:21  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.11 (Mon)

600丁の宇宙-NOTE

NHK スペシャル 至高のバイオリン ストラディヴァリウスの謎』を観た。

クラシック音楽や楽器のことにはまったく疎いわたしだが、これは面白かった。現存する約 600丁のストラド(と呼ぶのだそうだ)それぞれに強烈な個性と愛称があるとか、300年も前の大天才の業をいまだに捉えることができないとか、厨二ゴコロがキュンキュンしてしまったwww







PR:RL』。

3年も公式大会に出ていないのにまだ Queen とか名乗れるんですかあ~? とか、さすがにだれも言い出さないわな、そりゃ。

しかし、Aurora Rising が 3rd Jump 扱いだったことは、『PR:AD』から観てきたものとしては納得がいかないというかなんというか。まあ、跳ぶことによる特別な効果もなかったし、あれは真の Aurora Rising ではなかったのだと思うことにする。さすがに無限のアレと同グレードのものに生命をかけていたというのはヒドい話だし。

それにしても、「過去からの因縁」と「受難の恋」という、いつもの展開が見えてきて、ワクワクするよね! あとペアトモってどのコもカワイイとは思うけれど、アイツら、顔くらいの大きさで若干デカイな。怪鳥だ。







KILL la KILL』が面白い。

誇張と省略のダイナミズム。まさにアニメにしか出来ない映像表現、という印象。為になる。

ちょっとノリが全体的に大仰だけれど、それはいまさら、ということなのだろう。







「NaGISA の大先生サマ」の生放送(タイムシフトも終わったね☆)のためにニコニコ動画のアカウントを取得したわけだけれど、たぶんウチの XP さんの SPEC では快適な動画視聴は期待できそうもないので捨て置くことにした。

人によっては「人生における大いなる損害」と感じる方もおられるだろうが、しかたない。わたしは地上波でも観るよ。

あと、いちおう「大先生サマ」のコミュニティにも入っているはずなのだけれど、あれってプレミアム会員じゃないとコミュ主に旨みない感じかしら?



00:54  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.11.09 (Sat)

年明けが良いですね-NOTE

近頃話題の「牛脂を注入した加工肉」なるものが「なんのこっちゃ」だったのだけれど、要は「赤身の牛肉に針状の機械を使って牛脂を細かく注入して、見た目、霜降り肉っぽくする」のだという映像をニュースで見て、合点がいった。

まあ、偽装表示とはすこし違うにしても、例えばコンビニ弁当の牛さんなんかは、あきらかに「良くわからない肉」で、それでもなんとなく、そういうものだろうと理解して食しているわけだけれども、さすがにシッカリとした店でこうだと、みんな怒るのね。

ちなみにわたしは赤身も好きだ。







アヤメさんがなにかごにょごにょと書いているときは、「他人に主張を伝達する」というよりかは「自分のなかで納得する」ためなのだと思うようにした。

あいかわらず論理展開が独特だけれども、そう感じるのはわたしが凡人だからだろうし。この悩みの数々が、作品として結実すると Happy よね。







それなりに Free novel Game を読んできているはずのに、いざ自分で書こうとすると、どういうふうになっていたっけ? となかなか難しい。

わたしはもう「特撮ドラマ脳」というか「エーガ脳」というか、映像的にしか物語を妄想できないようで、それをどう地の文に落とし込むかがわからない。動いているものは、動いているのをそのまま見るほうがカンタンじゃない?

Blog の文章程度じゃあ、練習にもならないしなあ。







mei さんへ。


コメントありがとうございます。いちおう 80年代はまだ就学前だったので、それほど年齢は離れていないと思いますがwww

Website の TOP 絵、修正したらなんか「W 浅野」のどっちかに似ましたね。たぶん、10代のころから芸能活動を始めて、アイドルっぽいことをされていたほうです。『101回目』じゃないほうかな。……いや、すみません。最近、テレビで見たもので、印象に残っていたのでしょうか。別に可愛くないとか言いたいわけではないです。「怖く」はないです、良い絵です。


ゲーム。

そうですね。「フリゲ」「ノベゲ」、便宜上の呼称がどうであれ、「ゲーム」扱いが嫌ならゲームでなくても良いと思います。ゲーム性がなくては始まらない他ジャンルはともかく、わたしはもう Free Novel Game はただの作品、「works」で良いと思っています。

「そんなん、どうでも良いわい」という、ある種のテキトーさに賛同してくださる方もちょこっとはいるのですが、一方で Free Novel Game のロールモデルを基準に作品を評価している人たちもいますからね。しかし、そういう「あるべき論」では、どうしても掬い取れない作品が出てきてしまう。今後のためを想えば、表現の幅をむやみに狭めるべきではないと、わたしのようなものは考えるのですが。

新たな「なにか」を創出したい、という向上心はすばらしいですね。「選択肢があっても良いし、一本道でも良い」と考える制作者さんは数多くいるでしょうが、「運命はたったひとつ! 選択肢など許可しない!」と決意している人はなかなかいないと思いますよ。一般的なものとはちょっと違うのだということが、もうすこし周りに伝わると良いのですけれどね。



02:26  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.09 (Sat)

Free Novel Game に「ゲーム性」は必要ない-NOTE

むかしから「一本道ノベルはゲームじゃない」と主張している人はいた。

ただ、そもそも論としての「ノベゲが『ゲームでなければならない』理由」が、主張している本人の「思い込み」以外は思いつかず、心底どうでも良いと感じていたし、また、時代の流れによって旧来的な境界線も薄れ、もはやそのような「偏見」も廃れたものだと楽観視していたわけだが、身近なところから、いまだに「ゲームであるか・ないか」を評価基準としている人間がいるのだと聞いて驚いている。

わたしが、Free Novel Game は「でなければならない(ゲーム的でなければならない、小説的でなければならない、エンタテインメントでなければならない、など)」という「あるべき論」から脱皮する道を行くべきである(あ、ヤベ)と考えていることを明確にした上で、そもそも「選択肢程度ではゲームとは呼べない」と主張しておく。

数個の選択肢で個々の結末に分岐するよう制御されている程度の作業的な構造を「ゲーム」と呼ぶべきではない。せめて、複雑な条件を踏まないと Ending にすら到達できない(しかも、それがただの理不尽ではない)くらいの知的挑戦でないといけない。プレイヤーが試行錯誤する必要のない、エンディングリストを埋めるためのルートの丸暗記のようなものでは面白くないのだ。

だから、ハッキリいっていま、まともに「ゲーム」と呼べる Free Novel Game 作品が数えるほどもない現状で、それでも「ゲームか・そうでないか」などという瑣末な理由で制作者を難じるのは不毛であると、わたしのようなものは考える。

だいたい、Free Novel Game 作品をゲーム性を感じさせられるバランスにまでチューニングするのは並大抵のことではない。結果、ライトな制作者が「選択肢ゲー」に甘んじていることは、ある種の必然だともいえる。そういった現実に思い至ることもなく、ただギャアギャアと喚くのはよろしくない。


そういえば、Free Novel Game の古典的名作である『ひとかた』の後書きには「ある区切られた時間を延々と繰り返すループ構造を追体験すること自体がゲーム的なのである」と記されていたはずである。つまり「見た目一歩道ノベルでも、この作品は『ゲーム』なのだ」という理屈だったわけだが、これはあくまで当時の感覚であり、ループものが広く認知され、濫造されている今日でも通用するものなのかはわからない。







日テレの「ハリポタ祭り」も終わって。

どうでも良いことだけれど、8作目ともなると、さすがにルーナも育ってるなーって。

声優さんの印象はそれほど変わらないから余計にね。ハーマイオニーの声の人、好きだわー。



01:45  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.11.05 (Tue)

メビウス、芸能界やめるってよ-NOTE

なんだかんだでストーカー呼ばわりされるくらいに「NaGISA の大先生サマ」をネタにしているわけだが、どうやらアチラさまはこの Blog に書かれている「悪口」のことを知らないらしい。

きっと NaGISA net へのアクセスなどから「またなんかやってる」と推測しているくらいものなのだろう。まあ、わざわざ腹を立てに赴くようなことでもないし。だから基本、アチラさまになにか伝わるかも、などとは期待しないことにした。

それに、舌戦になるようなことがあるとしても、きっとまたわたしが暴走して負けることになると思う。冷静になれないなら勝てるわけがないのだ。

それにしても、今年の三月に、珍しくアチラさまから「口撃」してきてくださったことがあったのだが、あれは結局なんだったのだろうなあ。要は、大昔に「大先生サマ」の Follower を汚い表現で罵ったことを、わたしが誤魔化していると糾弾してきたわけだが、わたしが「いや、罵倒はしましたけれど、それがなにが?」と認めると、なんか良くわからないうちにウヤムヤのまま終了してしまった。うーん、意図がわからない。わたしが泣いて土下座でもすることを期待していたのだろうか。

(ついでにそのとき、アチラさまから「嘘吐き」の称号を頂戴したのよ☆)

もう何度も「大先生サマ」(と、ついでに道玄斎さんとか)のレビューを「あの程度、大したことない」と難じてきたわけだが、これは正しくない。レビュアーとして一定の役割を担っていることは確かだが、しかしそれは結局、数年前に生み出した価値をそのまま引き継いでいるだけのように思える。

なんというか、なにも学ぶべきことがない。新しい価値を提示していないからだ。別に、三年前でも五年前でも、語り口に変化はないのではないか。「10周年」が大してめでたくもないのは、ただ時間を経たというだけだからだ。むかしの栄光で生きている元・芸能人と変わりない。

「Cafe」や「Material」や『8SS』と、周りを巻き込んでいろいろ挑戦してはいるけれど、それがレビューに反映されているわけでもなし。仲良しの制作者同士がキャッキャウフフしている様が面白いわけでもなし。

わたしよりもあたまが良くて、よっぽど勉強家でもあるだろうに、つまんねー。







わたしが「大先生サマ」の Follower のひとりだったとき、わたしが打ったことばたちは「大先生サマ」の機嫌と場の秩序を守るためのものだった。それは、一般的には気遣いとかネチケットとか呼ばれるものだが、すくなくとも真実からのものではなかった。

だが、Blog を始め、ゲストからホストへと立場が変わった後に出逢った友人たち、有尾さんやエコーさん、冬生まれさん、アヤメさんとのあいだで交わされたことばたちは真実からのものだったと思う。みんな自分のことを語ってくれたし、こちらの失言で険悪なムードになったとしても仲直りをすることができた。

それはきっと、みんながわたしのことを信じてくれたからだ。そしてわたしもおなじように相手のことを信じている。これを書いたら傷つけてしまうかもしれないとか、機嫌を損ねられると厄介だとか、そういう不安はない。「信じる」という行為は、そういうリスクヘッジが実はそれほど意味がないということを教えてくれる。真実からのことばがあれば、それで足りるのだ。

思うに「敬意」や「感謝」という「キレイなことば」はしかし、真実から人間を遠ざける甘い毒のようである。これらの善行は真実より先に存在しているわけではないのに、初めからそこにあるかのように欺かれることがある。それがすなわち「道徳を説く」ということだ。だからわたしは道徳を信用しない。

制作者とプレイヤーが真実のことばで語り合える日は、はたして訪れるのだろうか。







「ヨ」は世のなかの「世」なんじゃねーの?



02:28  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.04 (Mon)

ヴォルテール! あなたのことばを信じるッ!-NOTE

小説にせよ音楽にせよ映画にせよ思想書にせよ、作品に表象されたあれやこれに感動することはすなわち、その作者のことを「信じる」ということなのではないか。

わたしたちは、会ったこともない、あるいは海の向こうに住んでいる、なんなら数世紀前の人物とも、信頼関係を築けるというわけである。

たぶんこれは、Free Novel Game の制作者とプレイヤーのあいだにもいえることで、「ルールなのだから従え」とか「(おたがいのために)感謝を要求する!」とか言ったところで、他人のココロは動かない。

とりあえずは、信じてもらえるように努めるか、「いらん人は切る」とバッサリと割り切るかのどちらかしかないように思う。







mei さんへ。


昔の絵、見ました。どれも丁寧で密度が高いですね。

真ん中の絵、「少女マンガのようにキラキラしていない」という意味で「怖い」と表現されているのなら、確かにそのとおりですが、パッと見の印象としてはそんなことはどうでも良く、フツーにステキな絵だと思います。

そこまで気にすることはないとあらためて感じましたが、こればっかりは難しいですね。



学生時代の話も読みました。なかなかカッコ良い少女ですねwww

mei さんのバックグラウンドに怪奇小説(で良いのでしょうか)があることを知れて良かったです。mei さんは「Free Novel Game を制作するからにはマンガやゲームに詳しくなければならないのでは」と心配されているのかもしれませんが、このギョーカイには、それこそマンガやアニメに一切興味がない、生粋の小説書きのような制作者さんもおられます。

ですから、あまり周りを気にせず、のびのびと自分の作品を手掛けられたほうが、結局のところ良い結果につながるはずだと、わたしのようなものは思います。



フリーゲームはだれのものなのか?

個人的には「ゲーム性がない(単純な選択肢のものも含む)なら、Free Novel Game はゲームじゃねえ」と考えています。これはネガティヴな意味ではなく、「ゲーム」という枠に囚われる必要はない、ということです。

思うに、「作品制作は自己満足である」と標榜している mei さんならなおさら、「プレイする方がいないとどうしようもない」ことはないのではないでしょうか。van Gogh が絵画が売れないからといって描くことをやめるわけではないように、自己表現としての作品制作には、他人の存在はさして必要がないのです。

ただ、その一方で、mei さんはコミュニケイションを求めておられるように思えます。そりゃどうせなら褒めてもらいたいというのは制作者として当然のことですが、しかし、おそらく「作者がいなければゲームをプレイすることはなかったのだから(理解してよ)」と言ったところで、プレイヤーを説き伏せることはできないでしょう。

それは結局のところ、作品に表れているものがすべてだからです。プレイヤー側が努力しなければならない部分もあるはずですが、基本、プレイヤーが作品からなにを感じ取り、どう振る舞うかをあらかじめ「指定する」ことは(例え制作者自身でも)できません。たぶん、道徳で取り締まることもできないと思います。(だからって、アホなことを書いているヤツを許せという意味ではありませんよ?)

まあ、「どうしようもないからあきらめろ」と言ってしまうと身も蓋もないのでアレですが、他人に期待しすぎないように、ちょっとだけ気持ちをセーブしてみるしかないのかもしれませんね。



19:17  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.11.04 (Mon)

共同体の利益を 最優先する 汚れ仕事-NOTE

冬生まれさん、こんばんは。


バラエティでのマザコンエピソード披露って、例えば芸人さんの場合、そのままだとキモイ話を演出のちからでおもしろおかしく仕上げて、それを見た本人はちょっと恥ずかしそうにしていて、その様を MC がイジってまた笑いにする……という、言ってしまえば「ネタ」の範疇に収まるようなカワイイものじゃないですか。

でも、山本タローは、おなじような「おもしろ VTR」が開けても、「いや、母親を大事にするのは当たり前じゃないですか?」と真顔で応じていて、そのとき「あ、この人『本気』だな」と思ったりしました、確か。

なんか、「原発事故に巻き込まれたコドモたちのため!」とか強弁しているのを見ても、社会正義とかではなく、母親に注いでいる「なにか」とおなじ理屈で動いているのではないか、と思ってしまいます。

こういう「本気な人」、つまり「自分自身に疑いを持たない人」って、大抵やっかいなものですよね(どっかの「大先生サマ」も、2ch で叩かれた後遺症でだいぶオカシクなっちゃったし)。

これがまだ「画面の向こうの存在」なら実害もなく笑って済ませられるのでしょうが、政治とかやられちゃうと……とみんなが考えるのもわからなくはありません。

ぶっちゃけ、このまま議員として「処分」されてしまったほうが「世のため人のため」なのかもしれませんが、でも、そんな結末を支持するウザい「空気」の充満した社会も、また怖いものです。



それにしても、冬生まれさんの観たエピソード、彼女さんはたまったものではないですね。本人が帰った後の悪口ですら充分アレですが、母親のほうも敵対心でやっているのだろうなあ。タローとママ、愛情が双方向というか。

わたしの母親も、おとうとクンの彼女さんを本気で毛嫌いしているようで、「この人ですらオンナだ!」とビックリしたりしていますwww

これだと、山本タローがスピード離婚したお相手とのあいだにも、メンドくさいことがあったのだろうなあ。シアワセになれない結婚に価値はない、ってことですかね。



03:49  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.11.03 (Sun)

君に届け-NOTE

山本タローの「お手紙手渡し事件」で、モラルポリスみたいな連中が怒り狂っている様がウケる。

山本タロー程度の議員がなにをしたところで、大勢に影響などありはしないとみんなわかっているはずなのに、「政治利用」とか過剰に反応しすぎ。校則を取り締まっている風紀委員レベルの下らなさwww

だいたいあの手紙も、園遊会のあの場で話しかけられて二言三言やりとりをする、そういう会話の範疇くらいのものだったわけでしょ。自分に与えられた持ち時間なんて高が知れている。とてもすべてを伝えきれそうにない。だから思いの丈を手紙にしたためてそっと手渡し……だなんて、ずいぶんと誠実な行動だと思うけれどwww

そもそも園遊会に有り難がって行っている人間なんて極まれで、大抵はヘラヘラとした作り笑いを浮かべて、当たり障りのない会話でお茶を濁しているはず(このご時勢、余計なことを言うとモラルポリスが騒ぎたてるわけだし)なのだから、そういうヤツらに比べれば、よっぽどマシというものでわ? すくなくとも、今回の参加者のなかで、いちばんヤル気と意気込みがあったのは山本タローのはずwww

「不敬だ!」とか喚いているウヨもいるけれど、人間、期待してない相手とまともにコミュニケイションを取ろうとするわけがないのだから、山本タローは充分、天皇に対する敬意を抱いているってことになるでしょーが、バーカバーカwww


追記:
批判や処分の理由が「議員の品位www をおとしめた」などといったものである時点で、山本タローに大した罪はないことが理解できる。良識ぶっている自分たちも、下品だからこそ「政治屋」などやっているのだろうに。いわゆる「空気」の問題。アホか。

ちなみにわたしは、芸能活動を離れた山本太郎のことは、あまり好きではない。

そういえばだいぶ前にバラエティで披露していたマザコンぶり、というか母親への強すぎる愛(とその理屈)が若干、怖かった覚えがあるが、きっとなにに対してもそういう人なのだろうなあ、山本タロー。



01:38  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.11.02 (Sat)

私信にょな ヒトリもの ゴト-NOTE

mei さんを「シンガーソングライター」に、れんれん堂作品を「彼女が制作した楽曲」に見立てて紹介するという「自己満足」遊びは、次の構想がすでに出来上がっていて、あとは実際に作品を読んでまとめるだけなのだけれど、どうやら近いうちにもう一本公開されるようなので、気長に待ち状態なのでしたー。



ああ、これ(れんれん堂@blog | 次回作予告。)は「萌え絵」だったのですね。

個人的に、mei さんの描く人物の顔を「怖い」と感じたことがないので、単純に「可愛らしいお嬢さんの絵だな」くらいの捉え方しかしていなかったのですが、mei さんにしてみれば「詐欺メイク」ばりの大胆な改良だったのかあ。

わたしも、この絵と「萌え」とを結びつけられないくらいには毒されているということなのでしょうかねー。気が利かなくて申し訳ない。

でも、「思うように描けない」と悩みながらも、ある程度は見れるものとして仕上げられるというのは、スゴいと思いますけれどね。やっぱり、基礎的な教育を受けている人は、我流のそれとは違うのでしょうか。



mei さんはマンガもそれほど読まないし、ゲームもしないらしいのですが、Free Novel Game 界隈のためにはむしろ、そういう特色のある制作者さんが増えたほうが良いと思います。

マンガやラノベ、ゲームにドップリと浸かっていて、自分の好む作品を劣化コピーして「再現」してみせる制作者はいくらでもいますが、それだけではどれも似たり寄ったりでツマラナイ。それよりかは、(特に Free Novel Game にある程度詳しくなった人間にとって)まったく想定外の新しい世界を見せてくれる「異邦人」のような人がいてくれたほうが、作品の層が厚くなり、結果、全体の活性化にもつながるというものでしょう。



あと、アヤメさんもそうですが、過去からいままでの、それなりに積み上げてきたものをバッサリ削除できるというのは、貧乏性の溜め込み型人間からすると、スゴくうらやましいです。自分の愚行を思い返すときには便利なのですけれどね。



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