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2013.04.28 (Sun)

なんか ジブリの文庫の広告 が-Free Novel Games

お互い、ノベゲ制作に関してかなり近いスタンスの持ち主であると思うが、「一途に考え抜く」という姿勢においては、チャランポランのわたしがガムベースさんに並ぶことはないと思ふwww



ガムベースさんからのコメント:#368



あべこべなことを言っているのかもしれません。

いや、「感じるままに作れ」をより自覚的な技法として説明すると「与えられた様々な情報を取捨選択し、過去の読書体験と合わせて、自分の作品の『グランドデザイン』を形作る」になるのではないですか? わたしにはおなじことのように読めますが。




もし僕の、何らかの考えが「作品全体のグランドデザイン」を縛るものならば、修正していきたいと考えます。

うーん、「自由」に固執しているとおっしゃるガムベースさんからすると、こういう考えになってしまうのかもしれませんが、わたしのいう「グランドデザイン」はそういうものではないのです。

つまり「独創と生命」のアレですよ。「グランドデザイン」の基礎的な部分は、制作者自身の「生命」によって成り立っているとわたしは考えています。もっとわかりやすく「心地良いもの」「納得ができるもの」としても良い。そういう、制作者の素直な感情を下地に「グランドデザイン」というものは築かれるのではないでしょうか。

そもそも、最終的な決定権が製作者にある以上、できあがった作品が誰のどんな言説に影響されたように見えても、そのこと自体を気にする必要はないと思いますよ。というか、「外部のすべての影響からも自由」なんてことは現実的ではないのですから。




と、考えながら、「実例」を示すところでは「レビュー」がよい役割を持てるんじゃないか、という気がふとしました。

これ、「このシーンのこの演出は、こういった効果があるんだよー」みたいなことを指摘する、ということでしょうか。

そういった技術的な指摘を的確にできる「レビュアー」が実際のところどれくらいいるのかはわかりませんが、まあ、ノウハウを学びたい人にとっては有用かもしれませんね。

そういえば、わたしは作品の感想で、あまり個々の演出について言及することはないかなあ。ぜんぶ覚えていられないのでwww




せっかく支持してもらったところですが、「集合知」については発案だけです。

いえ、わたしのもただの思いつきだったので、ぜんぜん気にしないでください。確かに個々にノウハウを DL するより、ブラウザ上で参照できるほうが便利ですよね。

ただ、すくなくとも「Material」は誰かに強いられているわけではなく、みんなが自主的に素材を上げているので、「集合知」の実践の場として適切かな、と思ったのです。「オーソドックス」ではない活用法もあるのでは? みたいな。




僕は、前回のエントリから、そういった「作る過程」の話で良し悪し(「生命」のある作品か、「量産品」か)が決まるみたいにいっている印象を受けたので、疑問を覚えたと書いたのです。

なるほど、そういうことだったのですね。

わたしにはたぶん、オーソドックスな「型」に乗っかる行為自体が「独創」として映るのだと思います。例え、初心者がどれほどの魂を込めていたとしても、最初に「オーソドックスな型」を選択した、その感性自体が気に喰わないのです。それこそ、「とりあえずオーソドックス」のような感覚で作られたようなものはねwww

もちろん、これは完全な主観的評価ですから、それを非難されることはしかたがないとも思っていますが、そもそもガムベースさんがおっしゃるように「オーソドックス」の厳密な定義すらないのに、それでもなんとなく「オーソドックス」と捉えられてしまうような作品を、わざわざ評価したりはしたくないのです。




僕は、作品の魂は「非オーソドックス」に「作ろうとする意図」から宿るものではないと考えています。

そうですね。ハッキリいって、多くの読み手から評価されているノベゲだって、別にぜんぶがぜんぶ突飛だったりドラマティックだったりするわけではない。むしろ、セオリーにとても忠実なシナリオのものすらあるでしょう。

しかし、それらが「たんなるオーソドックス」で片付けられていないのは、やはり「グランドデザイン」がしっかりしているからなのでしょうね。製作者自身の価値観にシッカリと立脚して作られているから、そこに魂が宿った「ように見える」のでしょう。だから、制作者は「描きたいものを描ききるしかない」というのは正しいと思いますよ。




「ノベゲ作品に対して、完全に主観に依った評価を下して良いのか?」は、まったくの逆ですね。「客観的な評価などあり得ない」と僕は考えています。それだけでなく、そもそもレビューにおける「主観」「客観」って何? ということから疑問に思っています。本当に「もやもや」な状態なのです。

あー、なるほど、真逆だったのですか。うーん、でもけっこう難しい悩みですね。

そもそも、一般のレビュアーにしても「気に入ったから」その作品をレビューとして取り上げるわけで、まったく主観が介在しないということはありえません。

ただ、じゃあなにがレビューの客観性を担保しているのかといえば、それはたぶん「好き・嫌い」に依らない、万人が納得できる技術的な部分の評価なのではないでしょうか。つまり、ある部分は「優れている」、ある部分は「劣っている」、そして全体として見れば「良い感じ」というのが、レビューの基本形というか。

「NaGISA の大先生サマ」が「物語の流れ」や「キャラクタメイキング」といった技術的な評価を主軸にしているのも、主観を極力排除しようと努めた結果なのではないかと思っています。




制作者は「オーソドックスさ」からも「斬新さ」からも「自由」であってほしい、と恐らく、考えているのでしょう。「オーソドックス」なものも「斬新」なものもあっていい。

そうですね。わたしも大賛成です。なんならもう「ノベルゲーム」でなくても良いかなwww



(※旧カテゴリ名「のべげ とは なんぞ」)



02:37  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(2)

2013.04.28 (Sun)

新しく カテゴリを 増やしたよ-Free Novel Games

みなさんからコメントをいただけることは、わたしのモチベイションに直結しますので、これからもガンガンよろしくおねがいしますwww



とおりすが Z さんからのコメント:#369



最初に、お互いの「ノベルゲーム」の定義に、若干の食い違いがあるように思えましたので、わたしのノベゲ遍歴(?)を記しておきましょう。

一言で済ませるのならば、わたしは基本的に「Free Novel Game」しか読みません。

PC 向け作品の知識は当然のように皆無ですし、同人ノベゲでもきちんと読みきったのは『ひぐらし』だけです。いちおう「PSP」「PS3」を所持していますが、格ゲーや RPG のような、より動的でインタラクティブなジャンルを好んでいるため、コンシューマ機のノベゲにも造詣がありません。はっきり言ってしまえば、最先端の商業作品や流行ものには疎いです。ですから、話題によっては反応が鈍くなってしまうこともあるかもしれませんので、ご了承ください。

また、さらに付け加えておくと、わたしは「Free Novel Game」として公開される作品においては、別に必ずしも「ノベルゲーム」の体裁を成していなければならないとは思っていません。フリゲは「商業の三軍」に甘んじるのではなく、もっと独自の進化を遂げるべき、とわたしは考えているので、むしろもっと自由であってほしいのです。

例えば、「いんちきポエム集」のような「たくさんの画像に対してテキスト数行」といった形式の作品であっても、それを面白いと感じれば、そのように評価するでしょう。




というわけで本題。


この点に関して私は関心がないのですね。声があっても無くてもどちらでも良いというのが率直な思いで、テキストを読んだら次に送ってしまいますし、ボタン押しを作業と感じたこともありません。

うーん、これは性格の違いなのでしょうか。

わたしは「音の連続性が不自然に途切れる」のが生理的に無理なので、ボイスのスキップでもタイミングを気にしたりして、地味にけっこうツラいのです。

さらに作業感でいえば「Free Novel Game」でも、左クリックや Enter 押下はおろか、ホイールダウンのページ送りですらメンドくさくなるときがあります。マウス壊れるよ、みたいな。




私から見て「ノベル」でありながら「映像」を優先する人たちは過去に存在した「デジタルコミック」や「やるドラ」などのアニメ演出を重視した ADV の復活を望んでノベルゲームに居着いてるだけじゃないのという疑念があります。

こう書かれるということは、例として挙げられている形式は、とおりすが Z さんの目指す理想形とは違うということですね? なるほど。

それにしても『やるドラ』は懐かしすぎますねwww 当時は CD の容量でやっていたというのが信じられないというか。いちおう PS2 でも数作は出ていましたっけ。

PS2 の ADV といえば『金八先生』あたりが良かったですね。あれはサウンドノベルの「正統後継作」なので、他の有象無象とはやはり格が違いますwww




その他に、テキスト下表示の構造に引っ張られるように年々テキスト量が減っていることが面白さに繋がっているのか疑問を持っています。

ノベルゲームの画像演出は簡易的なものです。ある意味テキストはそれを補うことになってるわけですが、画面で演出するからそれを削っても問題なしって言えるほどのレベルには到底なれないと思うのです。簡易表現なのですから。


いや、というかそれは、作品を構成する各要素の配置によって「全体の情報量」をどうやって適切に分割するか、という問題なのではないでしょうか?

例えば、机が規則正しく並んでいる背景画像を表示すれば、そこが教室だといちいち説明する必要はないでしょう。立ち絵によってキャラクタの容姿や表情を確認できる場合でも、おなじようにテキストで事細かく表さなくても良い。あるいは、聴覚情報である劇伴にしても、流すだけで人物の心情や状況の説明となり得るわけです。

このように、ノベゲでは「伝えるべき情報」の分量をテキストだけに任せることなく分割できるわけです。このそれぞれの要素が高い水準で響き合ったとき、「総合芸術」と呼べるほどの領域に達することもできる。そうなると、ひとつが際立てば良いというはなしでもなくなります。

「ノベルゲーム」というのだから、あくまでもテキストが主でなければならない、という主張は、すこし狭量であるようにも感じます。ただ、

テキストで表現した方が効果があることまで画像で表現して作品をつまらなくしてるケースもあるんじゃないかと感じることがあります。

こういうこともないわけではないだろうな、とも思いますが。




ただ、この作品も小説版があってそっちでは詳細に内容が語られてます。面白いかは別として、小説読んだ後で映画を見ると誰でも内容の分かる作品になってます。

前回の『ラピュタ』もそうですが、「映像作品とその原作」という関係性のなかで立ち現れる相乗効果を、一次制作であるノベゲにそのまま当てはめられるのか、すこし考えてみる必要があるかもしれませんね。

以前、映画監督の大林宣彦さんが「映画はカットすればカットするほど面白くなる」とおっしゃっていました。観客には「イマジネイション」というすばらしい能力があるので、カットされたシーンや、あるいはそれ以上のものを補うことができるからだそうです。

場合によっては、「完璧に詳細が語られているもの」のほうがツマラナイということもあり得るかもしれませんよ。



00:24  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.25 (Thu)

連休に 遠出するのは 疲れそう-Free Novel Games

人によっては、すでに 3作も公開しているガムベースさんに対して、ノベゲ制作においては「初心者」であるわたしがなにをエラソーに意見しているのだ、と思われるかもしれないwww






わたしも、自分が固執しているものがなんなのかを省みてみないといけないかもしれないが、おそらくは「自主性」「自発性」に重きを置きたいと欲しているのではと思った。たぶん、レビュアーとその Follower の関係性を「キモい」と感じることと根はおなじなのではないだろうか。

例えば、作品の最大の魅せ場である感動的なシーンを構築するとする。このとき、自分が以前ココロ打たれたドラマや映画のシーンを思い描き、自分を信じてその演出を真似してみるのと、どこかのノウハウ記事の「感動的なシーンを演出するには、こういった曲調の劇伴を、このタイミングで流すと効果的ですよ」という指南をまるまる流用するのとでは、仮に本人の満足度やプレイヤーの評価がおなじであったとしても、後々に影響する「経験」としては、明らかな違いがあるはずだと考えてる。

というのは、勉強嫌いの人間の言い訳に過ぎないのだろうか?www



前回、ガムベースさんの構想するまとめサイトは有用性に疑問があると書いた。というか、考えてみればわたしのやっている「素材サイトアーカイブ」も、どれほどの役に立っているのか見当がつかない。実際「無名の一般ぴーぽー」にできることなどほとんどないのかもしれない。

とはいっても、ガムベースさんの主張そのものの価値を否定する根拠がないので、支持はさせてもらいたい。そう、例えば「Novelers' Material」で制作上の技術的なノウハウを「素材」として配布してみるというのはどうだろうか。

あの Union には優秀な制作者がたくさん係わっているから、彼らが協力してくれれば情報の信用性が高まるし、規約が存在しているので著作権の問題もクリアできる。あるいは既存のノウハウ記事にしても、きちんと許可を取り付けさえすれば「素材」として載せることも可能だろう。それに当然、他の素材へのアクセスも容易なので、より包括的な制作支援につながるという、運営側の旨味にもなる。これならガムベースさんひとりがガンバって情報をかき集めてくるよりかは効率的かつ効果的に「まとめ」を形成できるのではないか。まさに「集合知」。ただ、わたしはちょっとアレな立場なので、ガムベースさん、提案してみてくれませんか? リニューアル中ならタイミングも良いしwww



ただ、やはり「どんな素材を作り・集め、「総合芸術」としてあるためにどのように演出すればよいか、という部分」も基礎的な知識の内である、というのはいまいち納得がいかない。

いや、ガムベースさんの「ほんとうになにもわかっていない、まっさらな初心者には、どんなノウハウでも有用な知識になり得る」という言い分は、理屈としては理解できる。

けれど、「自分の作品のあり方」は創作のキモともいえる領域で、その重要部、つまり「作品の形式はどうするのか? テーマはどうするのか? 背景画像・楽曲などの素材を、どのような統一感を目指して収集するのか? 画面レイアウトは? 文章の表示形態は? 文字の大きさやフォントの種類は? 等々」といった作品全体のグランドデザインまでもを他人(の見識)に求めるというのは、どうも納得ができないのだ。

まあ、「ノベルゲームが作りたいから作りたい」というだけの初心者に対して「もうすこし真面目に考えろ」と言ってもしかたがないとか、厳しくすると間口を狭めることになるといった声もあるかもしれない。

だが、過去に評価を得た作品で、グランドデザインを持っていなかったものなどないと、わたしは確信する。それは、その制作者にとっての処女作であっても変わりはない。わりと引き合いに出される「才能」とも関係がない。ただの「意識の問題」ではないだろうか。ほんとうに初心者のためというのなら、技術以外の心得も伝えるべきではないのか。

ただなんとなく、ぼんやりと作った作品が、褒められもせず貶されもせずに埋もれていくだけというのがいちばん酷な話なのではないかとわたしのようなものは考えるのだが、どうだろうか。







続いていただいたコメントへのお返事



うーん、ガムベースさんがなにを疑問に感じておられるのかが、いまいち把握できないwww

読んでみた感想として判断」し「評価する」のは当然のことではないですか?

仮に「『奇を衒う』ために、オーソドックスな形式から意図的に外された作品」を「小賢しい」と思えばそう書きますし、もしその小賢しさが読み手に悟られないほど完璧に偽装されていたのなら(そして自分の好みに合致したのなら)素直に褒めると思います。「魂を込めて書いていたつもりが、何となくオーソドックスな感じになってしまった作品」も、結果が「オーソドックスな感じ」なら、そう評価するでしょう。


というか、このふたつの例がなにを指しているのかもいまいちなのですが、もしかしたら「製作者の意図」について書いているのかなあ? とすれば、わたしは、仮に製作者の意図や真意がなんであれ、「作品内で表象するもの」だけがすべてであり評価の対象であると考えています。制作者がどれだけ時間を捧げたかとか、なにを犠牲にしたかとか、そういったバックボーンはどうでも良いのです。

そもそも、フリゲの製作者さんなら「個人情報をほとんど公開していないのでその人となりを理解することすらできない」こともザラですから、自然とそういう考えに行き着くものだと思っていたのですが、違うのでしょうか。


あるいは、「レビューの主観性・客観性についてのもやもや」についてチラリと言及しておられるので、もしかしたらガムベースさんは「ノベゲ作品に対して、完全に主観に依った評価を下して良いのか?」とお考えになっているのかもしれません。というか、そういうふうにも読める。

仮にそうだとしたら、わたしはもともと「中立かつ公正公平」な客観評価、例えば「悪い点について言及するなら良い点も併記しなければならない」とか「プレイヤーにも製作者にも有益でなければならない」といったレビュアーの価値観に反発しています。

わたしにとってはどうでも良いしがらみから、限りなく自由でいたいのです。もちろん、主観にのみ依るわけですから、時にはわたしの無知や浅学ぶりを晒すことにもなるでしょう。それでもわたしは自分のやり方を貫きたいのです。それがいちばん楽しいから。

そういった考えでやっていますから、ガムベースさんがなにを疑問に感じられたのか、良くわからないのです。すみません。


あと、「作品を読むことで「生命」を感じ取られている」とありますが、別にいつも「生命」溢れる作品ばかりに出会っているわけではなく、正確には「生命」を感じ取れる作品に出会えたらラッキー、くらいのものですよ。その出会いだけで幸福なのです。







ガムベースさんの「納得が報酬」という価値観は、以下のエントリに綴られている過去作についての自己評価にもつながっているのではないかと思う。




ガムベースさんの作品はいちおうすべて DL しているはずなのだが、「ロリコン」というテーマから、食指が動きようもないこともまた事実で、さてどうしたものか。

製作者さんへの気遣いをあえて考えないとか決めていると、ふと実際に知り合いになったときに困る。そうそう悪い人もいないから。自己嫌悪はしょっちゅうよwww



03:11  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.23 (Tue)

みんな 自分で 考えることから 始めてみては?-Free Novel Games

ガムベースさん、丁寧なリンク報告ありがとうございます。

該当のエントリ、まったく問題ありません。むしろ、わざわざ取り上げていただいて恐縮です。









道玄斎さんの「色んな人の色んな技法を纏めるサイトとかあると凄い有益だと思う」という思いつきに賛同するという趣旨のエントリ。「技術解説記事のレビュー」あるいは「実践的なノウハウのまとめサイト」みたいなリストがあれば良いよね! とのこと。

そんなものがあれば確かに便利そうだとは思うが、反面、おそらくほとんど役に立たないだろうとも思う。まとめやブクマのリストみたいなものを眺めて満足するだけの自堕落な人間こそが、そういった「便利」を最も求めるものだからだ。アンテナの受信状況が劣悪な感性には、情報の山も無用の長物である。

とりあえず何事であれ、自分が世界初の創始者である「まったく未知の分野」でもない限りは「必要最低限の基礎知識」がなければ始まらないことは明白だ。先人たちが蓄積した技術や知恵から学ぶ、あるいは盗み取る。個人で楽しむだけならテキトーに思うままにやっていれば良いが、ある程度きちんとしたものを作りたいのであれば、知っておかなければならないことはたくさんある。

だから、道玄斎さんが「さまざな指南書に触れて見識を広めよう」というのも、「NaGISA の大先生サマ」が「面白い物語を読んで勉強しなさい」というのも、「基礎をきちんと固める」という点においては正しい。

ただ、それはあくまでも「基礎知識」の範囲内での話である。それ以上のあらゆるノウハウ、つまり「どんな素材を作り・集め、「総合芸術」としてあるためにどのように演出すればよいか、という部分」までもを他人に求めてはならない。それは自分自身で考え、悩み、構築しなければならない。そうしなければ、その技術とそこから生み出された作品は結局「なにかの模倣」でしかなくなる。超ヒット商品の二番煎じコピーみたいなものだ。そんなものに誰が感動する?

道玄斎さんのいう「絶対的に正しいやり方」というのは、恐らく存在しないというのは、まさにそのとおりなのである。自らを省みることを怠り、効率や合理性だけを追いかけていては、創作活動を実りあるものにはできない。マニュアル本どおりに進む恋愛など存在しないように「創作活動には、義務教育で扱われる問題のように始めから答えが用意されているわけではない」ということがわからないのなら、ノベゲ制作など志すべきではないのだ。きっと人生の浪費になる。


というわけでわたしは「基礎知識以上のものを扱う『有用なまとめサイト』などありえない」と考える。例えありふれた手法だろうが、自分でアンテナを張って、自分で考え出すしかない。









フリゲギョーカイには「作品を公開したほうがエライ」という風潮がある。例えばわたしは「大先生サマ」から「作る作る詐欺」と揶揄され、わたし自身もそれを恥じる部分があるわけである。あるいは、制作者の「ノベゲ作ったこともないくせに、文句言うな!」みたいな逆ギレが一定の効力を持ったりするのだ。

だから、道玄斎さんは「オーソドックスな作品を」とりあえずでも「作ってみる事をお勧めしているわけ」だ。習作でも公開してみることで得られるものも多いだろうし、案外「斬新な作品」と受け取られるかもしれないよ、と初心者の自意識にくすぐりをかけているわけである。まあ、実際、そんな上手いこといくわけないと思うが。

とりあえずわたしは、初心者向けと銘打ったノベゲ制作講座で「ヒロインの印象が薄いので、ベタなクセや属性といった個性でも乗っけて『リアリティ』を出せば?」などと書いてしまう道玄斎さんが思い描く「オーソドックスな作品」なんてどうせロクでもないと馬鹿にしているだけなので、初心者の作品がエターなることにはさして興味がない。そんなの、別に誰が困るわけでもないし。


さて、ここでわたしの偏見丸出しの「オーソドックス観」を記しておくことにする。「オーソドックス」をわたしなりに意訳すれば「どこかで見たようなもの」「すでにありふれたもの」となるだろうか。要は「学生もの」「感動もの」「伝奇もの」「幼馴染みがいて、男女の悪友がいて、ボケたりツッコんだりするコメディっぽいヤツ」「トラウマを抱えた若者の恋愛もの」のような、似たような作品が掃いて捨てるほどあるジャンルのことである。

思うに、「斬新」への執着が足かせになるというのなら、とりあえず、みんなが慣れ親しんできた設定やシナリオを借りてみてはどうですか? と道玄斎さんは言いたいのではないか。すくなくともわたしはそう解釈したし、そのような「オーソドックスな作品」がこれからまたどれだけ溢れたところでまったく価値がないとも考えている。

わたしは「独創より生命」と書いた。「生命」とはまた仰々しいことばだな、と思われるかもしれないが、実際はそんなにむずかしいことではない。

例えば、背の高い人と低い人では見えている世界が違うだろう。太っている人と痩せている人では気温の感じ方が違うだろうし、北海道と沖縄に住んでいる人では季節の捉え方が違うだろう。このように、条件が異なればそこから導き出されるものも当然に変わってくる。このちいさな差異の集積が、結果として「個性」として表れるとわたしは考えている。

そして、その素朴な「個性」が作品に投影されていれば、というか、投影されていると「読んでいるわたしが」感じることができれば、そこに制作者の「生命」があるといえるのではないか。別に「斬新」でも「万人が感嘆するエンタテインメント作品」でなくとも良いのだ。書き手の人生の一端でも感じることができればそれで良い。

と、このように考えている人間からしてみれば、すでにある使い古された「物語のテンプレ」にオリジナルの設定をちょこちょこっと乗せただけの没個性的な作品を「王道だ」「オーソドックスだが個性は宿る」などと担ぎ上げているさまは、実にくだらなく軽薄に見えるのである。

「オーソドックス」で微細な差異を楽しむことができるもので、かつ「生命を込めた」もの」もある? 「あり得」ない。テンプレに依っている限り、それは「大量生産の既製品」である。

例えば、山手線に乗って車内を見回してみると良い。どれだけの人の顔があるか。その数だけ人生がある。わたしはそれを知りたい。これが世界に関心があるからなのか、ただの「消費者の強欲」なのかはわからないが、とにかくそういう気分なのである。


別に、商業ノベゲやラノベやマンガにあてられた制作者がいることや、「プロの商品」と見まごう作品を最終到達地点に据えること自体は、どうぞそのようにすれば良いと思う。

しかし、せっかくのアマチュア、せっかくのインディーズ、せっかくのシロートなのだから、情熱だけ暑苦しいイビツでニッチで自由な作品がもっともっと咲き乱れても良いのではないか。そのような作品が生まれる土壌を整えるほうが有益ではないか。と、わたしのようなものは考えるのだ。

だから、「自由であれ」というガムベースさんの姿勢には深く共感する。ありがとう。



02:47  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.22 (Mon)

寒暖の差 激しすぎて 死ぬ-NOTE

さっそく『7th Dragon 2020-II』に手を出してしまった。カラバリ最高。色は大事。おなじ見た目でも性格が違うように感じるよ。


さて、このゲーム、初音ミクさんがテーマ曲を「歌っている」のだが。

ただ慣れていないだけなのか、わたしもついに「年寄りの感性」になってしまったのかは知らないが、「彼女」がなにを歌っているのか、さっぱり聞き取れないのだった。なんぞコレ。

例えば、洋楽なら歌詞の意味までは把握できないけれど、それでもまだ「歌」として楽しむことはできる。でもこのテーマ曲、「歌」に聞こえない。というか、言語として認識できない。

確かに日本語詩のはずなのに、宇宙からの暗号みたい。なんか「声」でもない「曲」でもない、良くわからない「ヘンな音」って感じ。スゲー難易度高いわ。


とか愚痴ったところで、VOCALOID ファンの中高生とかに笑われるだけなのだろうな……。







今日の『さんまのスーパーからくり TV』を観て、なんか「若いって良いな」と思ってしまった。

15、6歳なら、いくらでも人生選べるもの。未来がある。

虚しいオトナになったな、わたし……。







とおりすが Z さんのコメント

いま見たらコメントの終了宣言が追加されていた。これ以上の会話の発展は望めないのかもしれないが、せっかくだから書くだけ書こう。誰かが興味を持ってくれるかもしれないし。


さて、正直「ラピュタの劇場版と小説版との相互補完によって得たあの体験を再現したい!」というはなしを聞いて、いったいどれだけ先進的かつ革新的な作品を目指しているのだろう、とわたしのなかでのイメージが追いついていかないような感はあったが、

>「ノベルゲームは読み物」を自認する輩にこっち系方面の作風の場合は演出不要と散々言われ続けて駆逐されましたから。

この文章から推測するに、要は「カットイン」や「アニメーション」などの動的演出を多用した作品、くらいの感覚で良いのかもしれない。ただ、それだと「メディアミックス」と呼ぶには若干、弱い気もするが。うーん、やっぱり抽象的すぎて良くわからない。

まあでも、とおりすが Z さんが「私の理想とする方向性を体現」とまで書いている『あふさきるさ』を試しにやってみれば良いのだろうな。それではなし終わっちゃうな。


「映像表現と文章表現の融合」みたいなはなしからわたしがなんとなく想像したのは、「低スペックハードの RPG におけるイベントシーン」みたいなものなのかな、だった。

PS 時代の RPG ではまだまだポリゴンモデルも貧弱で、キャラクタができるのはカンタンなアクションくらいのものだった。当然、「演技」なんてものを期待できるわけもなく、基本はテキストと声優さんのセリフによってイベントが展開していた。ぶっちゃけ、いま見ると「画面が良く動くノベゲ」といえなくもない。

データ容量が増えた PS2 の後半期くらいになると「演技」っぽい見せ方も出てきたのだが、それでもまだ「人形劇」の域を出るものではなく、テキストベースで展開するものもすくなくなかったように思う。

そして、HD に移行した現行機では、スペックの向上や技術の進歩により、ようやくポリゴンモデルに複雑な演技をさせたり、カット割りを多用したりということができるようになった。もっぱらテキストはささやかな字幕表示になった。ここまできて据え置き機の RPG のイベントはアニメと同レベルになったのだ。

わたしは、声優さんが「読み上げてくれた」テキストをいちいちボタンで送るあの「作業」に嫌気がさしていたので、現状の映像表現的な見せ方には大賛成なわけだが、そんなわたしからしてみると「映像表現と文章表現を組み合わせればもっと豊かに!」という発想は、やっぱり良くわからない。そんなことをするくらいなら「映像表現」によせるほうが良いだろうと考えているからだ。


とはいえ、何度も言うように、わたしはとおりすが Z さんの理想を否定するつもりはない。わざわざニッチな方向に突き進むというのなら、その姿勢を応援したい。

とりあえず、『あふさきるさ』をやらねばば。



01:14  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.19 (Fri)

だから さっさと 上野に 行きなさい-Free Novel Games

『地獄の門』『考える人』で有名な彫刻家、François-Auguste-René Rodin がこんなことばを遺している。


彫刻には独創はいらない。生命がいる。(『カテドラル』)


なんと短く、それでいて力強い確信に満ちたことばであろうか。そして、このことばを用いることによって、わたしのノベゲ評価におけるスタンスを極めて簡潔に表すことができると思い至り、さすが「本物の芸術家」は違うと感銘を受けたのだった。

わたしは、「ノベゲ」という限られた枠組みのなかでの差異を比較するための「独創」よりも、例え不格好でもことば足らずでも、書き手自身の「生命」が宿ったように感じさせてくれる「作品」を愛したいし、そのような作品を評価していきたいのだ。




翻ってこちら。




このエントリのなかで道玄斎さんは、「ノベルゲームのシナリオ作成技法」といった指南書を積極的に活用しよう! と書いている。初心者にも優しい助言であるといえるが、そこは別にどうでも良い。(結局、「人それぞれ」みたいな着地しか出来ていないところは残念だが)

わたしが引っかかったのは「斬新」という表現である。道玄斎さんは良く、いわゆる「王道」と呼ばれるような類の作品でも、書き手が違う以上すべてが画一的かつ凡庸であるわけではなく、そこには必ず「個性」が表れる、と書いている。制作者やそれを目指すものにとっては、なんと心地良く、心強いいことばであろうか。


しかし。ここでいわれている「斬新」だの「個性」だのは、所詮はつまらない「独創」なのではないかと、わたしのようなものは考える。上っ面を追うだけの創意工夫では、他人さまのココロを掴むことはできないのではないか。

道玄斎さんや、あるいは「NaGISA の大先生サマ」も、「天才」のような特異な才能を要していないものは、堅実な作品制作をしなくてはならないという。だが、ほんとうに(彼らがそう呼ぶ)「天才制作者」たちは、無尽蔵に「独創的な」アイディアが湧き出し、大した苦労もなくそれらをかたちにしているのか。むしろ、ただ実直に、自分自身の「生命」を込めて作品を生み出しているだけなのではないか。才能の有無のせいにできるほどの違いなんてあるのだろうか。


ちょっと名の知れたレビュアーに、カンタンに「どうやってゲームを作ったらいいのか?」などと尋ね、それでいてどうせなら「斬新な作品」を作りたいと望む人たちは、Vauvenargues が記したとおり、「偉人たちが偉大なことを企てるのは、それが偉大なことだからである。しかるに、馬鹿者たちが偉大なことを企てるのは、それを容易だと思い込むからである(「省察と格言」)」ということなのではないかと、やっぱりわたしのようなものは考えるのだ。




さらに翻って、とおりすが Z さんの「私論」。

とおりすが Z さんは「小説と映画の組み合わせが原点なのは変かも」と書かれているが、だからこそむしろ、このコメントからはとおりすが Z さんの「生命」を感じ取ることができる。そこには「それでもやるのだ」という意思があるからである。


まあ、正直、わたしには「テキストを主体とした画像と音の演出による融合」という表現方法がどのようなものなのかを、上手く思い描くことはできない。(いや、それぐらいならフツーにありそうなものだが、わざわざ「現在のノベルゲームの主流からちょっとズレます」と書いているから、もっとスゴイものなのかなあと思っているだけだ)

とおりすが Z さんが感銘を受けた『ラピュタ』の映画版と小説版の相乗効果というのも、それはあくまでとおりすが Z さんのあたまのなかで補完されているだけのものであるともいえる。「映像表現」と「文章表現」にはそれぞれ違った特性があるが、じゃあそれをチャンプルーにしたら表現がより豊かになるのかといえば、そうとも限らないだろう。

しかし、自らの体験に基づいた明確なヴィジョンを持ち、他人がどう言おうと求道するというのなら、それをわざわざ否定する理由がない。マスに媚びず、そのまま突き進んでいってほしい。

とおりすが Z さんの作品の多くは仲間内で公開しているだけらしいが、いつかどこかで出会えれば良いな、と思う。







まったく関係のないオマケ。

今日、ひさしぶりに引っ張り出した CD の発売日が「2000年」になっていた。

その「00年代」の前半頃、CD の寿命がすこし話題になったことがあった。つまりは、CD は十数年、良くても 20年くらいで劣化してダメになるらしいから、 CD 黎明期に発売された(家庭でフツーに保管している)ものは、そろそろヤバいんじゃね? というものだった。

その当時は「へえー、CD って、やっぱりそのうち聴けなくなるのだなあ」くらいにしか考えていなかった。だが、「2000年」から早「13年」が経過してしまっている。

……あれ? それって意外とすぐかしら?

まあ、すでに音楽はデジタル配信時代、コピーしてしまえばどうとでもなるとも思うのだが。



03:07  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(2)

2013.04.15 (Mon)

馬は合いそう だとは 思っています-Free Novel Games



とおりすが Z さんからのコメント:#363


とおりすが Z さん、コメントありがとうございます。



バイアス

うん、「その時々の発言で判断される方が実りがある」という主張はそのとおりだと思いますよ。

わたしの場合、活動拠点はほぼこの Blog だけですし、コンタクトをとってくれるのも、とおりすが Z さんのように「はじめまして」の方が大半ですから、相手の意図や人柄を判断するには、いただいた文章から読み取るほかありません。

そのような状況で何年も過ごしてくましたから、自然と「相手の発言のみで判断する」ことを実践していたと思います。ですから、とおりすが Z さんのおっしゃりたいことは、ある程度理解できているつもりです。

そんなわたしからしてみると、そもそも「固有 HN」と「信頼」との関係性が、とおりすが Z さんの思い描くそれと逆になっているようにも感じました。つまり、わたしのなかではコメントのやりとりを通して「信頼」が生まれ、その信頼を担保するものが「固有 HN」なのです。相手の存在の「一貫性の徴」とでも言いましょうか。「固有 HN」があるから「信頼」するのではなく、相手を「信頼」したからこそ「固有 HN」が意味を持つのです。

だから、例え「とおりすが Z」という HN が偽名であれ捨てハンであれ、わたしがとおりすが Z さんをはなしの通じる相手として信用している限り、「とおりすが Z」という HN は、わたしのなかで意味を持ち続けるのです。

と同時に、「一貫性」を重要視するわたしは、余計なバイアスがかからないように HN を使い分けるという人のことは、あたまではともかく、心情的には理解できないというおはなしでした。


おまけ。

ひとつめの例え。おそらく、なかなかクレイジーな自演をする人だな、と思うでしょうwww あとは、お互いのコメントを比較して、なにかを読み取ろうとするかもしれませんね。

ふたつめの例え。いえ、おそらく、より意見の内容を注視すると思います。わたしの敬愛する制作者さんが看過できないような馬鹿発言を吹聴していたら、ショックも大きいはずですから。まあ、例えばそれが「大先生サマ」のことなのですがwww




講座の意義

>教えたことはそれ以外に使い道がないものと思っています。そうではなくて、発想を変えて頭を働かせれば如何様にでも役立つよってことを認識してもらうことが一番相手の技術向上に繋がるのですよ。

うん、そのとおりですね。例えるならば、試験が終わった途端にあたまから抜け落ちていく「学校の勉強」と、道なき道を切り拓く「学問」との違いのようなものでしょうか。

確かに、サンプルを丸々コピペしてとりあえず動作するならそれで良いやと思っているうちは先がありませんよね。すこしずつでも良いからサンプルを解析して、きちんと命令文の役割などを理解できれば、自分のアイディアをかたちにすることもできるようになります。なるほどなあ。

とおりすが Z さんが「大先生サマ」に講座方面の素養がないと言っていた根拠がようやくわかりました。




NScripter

とおりすが Z さんは「NScripter」使いのようですね。そういう部分でも馬が合いそうですwww




「私論」

できることなら、とおりすが Z さんのノベゲの「私論」をお聞きしたかったですね。ノベゲについて深く考えておられる方のお話をうかがう機会は、なかなかありませんから。

あと、『あふさきるさ』を教えてくださってありがとうございました。さっそく DL してみたいと思います。



03:15  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.14 (Sun)

「ゆめ空」は 趣味に走ったん やて-Free Novel Games

ということは、ときたま話題に挙がる「古典少女漫画」の雰囲気を持ち込んだということなのだろうか。いや、そうでもないような気もする。いまさらながらの「ツン」だの「デレ」だのも古いといえば古いが。

それにしても「ダレダレはコレコレな人間」という決めつけが不毛かつ思考停止の愚行であることは認めるが、「NaGISA の大先生サマ」が実際のところどういう人物なのか、わたしは掴み損ねているのかもしれない。

テレビは観ません、新聞は読みません、ケータイは持ちません、メスメディアは情報操作、愛国心賞揚、戦争上等、ネトウヨは名誉呼称、とか公言する「生ける化石」なみの心性の持ち主だけれども、ノベゲを通して伝わる「ヲタカルチャ」には、ある程度のシンパシィを感じていると?

……なにか複雑怪奇だわ。わたしが世間知らずなだけかもしれないが。







とおりすが Z さんからのコメント:#361 , #362


とおりすが Z さん、コメントありがとうございます。

なにか、調子に乗っていろいろいっぱい書いてしまって、お恥ずかしい。




「ネガティブな意見の処理の仕方がどうしてこうも下手糞なのかな」

とおりすが Z さんはなかなかお強いのですね。

とはいえ、現に「NaGISA の大先生サマ」は旧作の評判が予想外に高まったことが、そのまま創作意欲に結びついたそうですから、読み手からの評価が制作者のメンタルに大きく影響することは疑いようがありません。

それに、一般的な感覚でいえば、ネガティヴな意見を突きつけられることはやはり好ましいことではないでしょう。わたしも「大先生サマ」から挑発されてカチンときましたからねwww

まあでも、そうですね。結局は、皆が「流したり受け止められたりする程度の私論」を身につけるしかないのかもしれません。別に制作者だけが人前に身体を晒しているわけではなく、レビュアーにしたって、どれだけ表現に気をつけていても、制作者が気分を害したと訴えれば、それだけでもう「悪者」扱いされるわけですからね。誰にとってもリスクはある。ネガティヴな意見を突きつけられたとき、その内容を冷静に吟味できるくらいの余裕を持っていないとツライでしょうね。




バイアス

確かに、「大先生サマ」のわたしを見る目にも、大いにバイアスがかかっていることでしょう。たぶん、こちらの書いていることをロクに読みもしていないのだと思いますwww

ただ、意地悪な見方をすれば、とおりすが Z さんの「意見の内容だけで判断してもらいたい」という欲求は、不快な演出すれば不快に思うのは当たり前なのに、「この演出スゲー」って思われるのを信じて疑わない人のそれと大差ないともいえます。どちらも「自分にとって好ましい反応以外はいらない」という態度ですから。

確かにわたしは、とおりすが Z さんが普段お使いになっている HN を知りません。しかし、いくら「とおりすが Z」という二重の匿名を駆使したとしても、コメントのやりとりを続けていれば、わたしのなかに「とおりすが Z」という人物像ができあがり、それによってすくなからずバイアスがかかってもくるのだと思います。

別に、とおりすが Z さんのポリシーを否定するつもりはありませんが、意見の内容をきちんと理解してもらいたいのなら、そうなるように相手に働きかけ続けるしか道はないと、わたしのようなものは思いますね。




「理想」「我欲」「偽善」

確かにわたしも「大先生サマ」の偽善には辟易していますが、彼がどこまで自覚的に振舞っているのかは謎ですね。「アホなことを書いている」のと「信者がそれを真に受ける」のはそれぞれが切り離された事柄で、それらを直線的に結びつけることは、わたしのなかではなかなかオカルトなことです。

個人的には、すでに彼は(彼が強く推す表現をあえて使うなら)「痴呆」状態であると認識しているので、本人、なにを言っても本気で「ノベルゲーム全体の為に行動してる」気分なのかもしれません。ただ、都合が悪くなると「人それぞれ」「※個人の感想です」で逃げるところを見ると、それほど混乱しているわけでもないのでしょうけれど。

まあ、「自分は論理的・体系的に考えていますよ」という顔で、実はけっこう「感情」に流されているように見える態度をとるところが「ゴチャゴチャ」しているといえるのかなあ。




「御高説」

ああ、やっぱりそうなのでしょうか。確かに、レビューサイトを利用するのはプレイヤー、しかも初心者や効率を求める人が多そうですものね。まあなんか、レビュアーが体験談を語ったことがそれほど重要なのか、とも思えてきましたが。




「誘導」

あー、「ワイドサイズ」ですか。確かにあれは自論に固執していましたね。ただそれも、彼の希求する「良いノベゲ像」と照らし合わせたとき、いまはまだデメリットのほうが多いから使用しなくても良いのでは? という意図があったはずです。理屈としてはわからないでもない。

ただ、それにしても、そもそもいろいろと制限の多いノベゲ制作で、さらにその枠を狭めるような意見をゴリ押ししようとする態度は理解しかねましたが。「ある価値観に沿って洗練された作品」が増えることだけを追求しようとすると、ああいった意固地になるのでしょうかね。



20:45  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.13 (Sat)

「はだかの王様」って どういう 教訓なん?-Answer to comment

Thanks!!
sugaZ-reco



とおりすが Z さんからのコメント:#360



03:17  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(2)

2013.04.12 (Fri)

Legal High SP も 楽しみ-NOTE

switchgirl




西内まりやさんが妄想したり変顔したり鼻血吹いたり泣いたり笑ったりするドラマ。

最近、地上波深夜に「1」と「2」を一挙放送していました。まあ、どうせいつものアイドルドラマだろうと思っていましたが、第一話のインパクトが強く、結局すべて観てしまいました。

CS の企画だからかは知りませんが、けっこうお下品なネタが多いです。とはいってもまあ、わたしの好きな伊藤理佐先生の世界観に近かったので楽しめましたが。でも、地上波のアイドルドラマではちょっと難しいノリなのかなあ。


シナリオ内容は、ハッキリいって荒いです。とくに「1」のほうは「なんでやねん!」とツッコミたくなる箇所が多々ありました。編集でカットしたのかはわかりませんが、ちょっとテンポや展開がおかしかった部分もありましたし。

とはいえ、このドラマは、おバカで一生懸命で「真っ直ぐwww」な田宮氏を応援するような気持ちで観るのがいちばんなので、最終的に結果オーライなら、それで良いのですが。(でも、続編にあたっての若干名のキャスト変更はおしかったです。Face の「ボス猿感」は増えていましたが、「あの方」の整った顔が持つ威圧感が良かったのになあ。まあ、それも思いっきりネタにしていたので、むしろ清々しかったですが)

あと、「Super Hero Time」ファンなら、より一層、楽しめると思います。キャスト一覧を見ればわかりますが、特に「2」の中盤あたりが胸熱……。Black Neils 悪い悪いwww


なんか、オンデマンド配信とかもしているようですよ~。でも、すでに地上デジタル放送に移行したのだから、DVD ではなく Blu-ray にしてほしいなあ。



著作権、怖し…… (´・ω・`)



02:12  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.04.11 (Thu)

最近 毎日かかさず チェックしている-Free Novel Games

NaGISA13





まあ、むかしとは意味合いが違うのだけれど。これでは「粘着」と罵られてもしかたがないwww



「NaGISA の大先生サマ」が次回作の構想を練っているそうで。スマホ版『ゆめ空』が予想外にウケたらしく、それに触発されて創作意欲が沸いてきたそうな。

彼のやる気ぶりを見るに、プレイヤーからの肯定的なフィードバックが制作者のモチベーションにつながる、ということはあるのだな、と感心した。そうなると、有尾さんが言うとおり「大先生サマ」のレビューもそれなりに重要な役割を担っているのだといえるし、また、「大先生サマ」自身も肯定的な意見のありがたさを理解しているからこそ、それをポリシーとして掲げ、実践しているのだともいえる。なかなか興味深い。


それにしても、構成要素をほぼ自分でまかなっていた、ある意味でこぢんまりとしたシロート感の強い作風であった「大先生サマ」が、そこいらの制作者とおなじように、絵師さんを担ぎ出しての「ヴィジュアルイメージ志向」に転向したこともまた興味深い。

例えば、現在絶賛リメイク中の『ゆめいろの空へ~ただいまっ!(ゆめ空 R)』では、「一年」という時間経過の表現や、そのなかでのさまざまなイベントに対応するために、相当なパターン数の立ち絵を描いてもらっているそうである。

さて、製作中の「ゆめ空 R」。立ち絵がかなり揃ってきて、もしかしたら今年中に完成するかも、というところまで来ました(……)。ヒロインであるスピカは、服装だけで10種類、しかもその全部がレイヤー利用ではなく描きおろしという、前代未聞の作品です。季節で各キャラの服装が変わります。また、千衿は、季節が移ればだんだん髪が伸びていきます。こんなわがままをきいてくださっている絵師さんには、頭が上がりません( NaGISA net / 2013.03.15 )

この「大先生サマ」のこだわり(や自画自賛www)や、相手の求めに見事に応えてみせた絵師さんの労力は賞賛に値する。


ただ、作品数を重ねた製作者というものは、結局はヴィジュアルノベル的な「型」に収まることを良しとするのかと、虚しくもなった。そこそこ見栄えのする立ち絵を並べ、重要なイベントはスチルを挿入する……あまりにもありきたりで凡庸ではないか。『エイト・ストーリーズ』も仲間内で褒め合ってはいたけれど、無関係な外部からの視点で見れば、特段に優れた演出効果を生んでいたとは思えない。せいぜい「ラノベの挿絵」くらいのものだった。

おそらく「大先生サマ」は『エイト・ストーリーズ』や『ゆめ空 R』を制作するなかで、作品を幅広い層のプレイヤーにフックさせるためには、見た目も重要だということを学んだのだろう。そして、その考えは正しい。

しかし、じゃあ例えば「すでに有名な小説やマンガを原作にする」「認知度、人気ともに安定した俳優をキャスティングする」ような映画やドラマは確かに大衆にフックするのだろうが、肝心の中身が果たして「おもしろい」のかというと……ということは往々にしてある。

個人的には、絵師さんを用いたヴィジュアルイメージの有無が作品の完成度に影響するとは思いたくない。商業・同人問わずあまりにもありふれたものの、しかもモノマネを手放しで礼賛するのはツマラナイからだ。

わたしは、Free Novel Game の新たなる地平を切り拓くものを欲する。







とおりすがZさんからのコメント:#359


とおりすが Z さん、はじめまして。コメントありがとうございます。




>この意見は自分もどうかと思いましたね。

そうですね。例えば、長編小説を 10冊読んでぼんやりと把握できる事柄が「ノベルゲームのシナリオ製作技法」のような本を 1冊読み込むことでハッキリと理解できるのなら、そのような指南書にもそれなりに価値はあるといえます。

まあ、「大先生サマ」の言わんとするところもわからないではないのですが。たぶん彼は、小手先だけの技術ばかり覚えてあたまでっかちになるよりも、「生」の物語に触れた感動のなかからいろいろと学んだほうが意義がある、と言いたいのではないでしょうか。

ただ、彼の説く「コツ」が、いささか稚拙で説得力に欠けることも事実です。もちろん、以前にも書いたとおり、知識や「型」の蓄積は大切です。「引き出し」や「ストック」が増えることは物書きとしての強みになるでしょう。しかし、それはただ「情報があたまのなかに堆積している」に過ぎず、それだけではなんの役にも立たないと、わたしは考えています。「あー、面白かった☆」の積み重ねでアラ不思議、などということはありえない。それは夢物語です。

まず「面白い物語」を解析し、思考を巡らせ、自分のフィルタを通して理解しなければ、「それがなぜ面白いのか」をわかったことにはならないでしょう。そして、実際に「自分の物語で」活用できるものなのか試してみる。どんなに面白いアイディアも使い方によってはまったく役に立たないこともあります。その噛み合わせを事前に把握することは難しいでしょう。となると試行錯誤を避けては通れない。

つまりは、物語や文章を「蓄積」し「精査」し「実践」する、これらのプロセスを幾度も踏むことによって、ようやく自身の経験として血肉化するのではないでしょうか。と、「面白い物語」を紡ぐ才に乏しいのなら、せめてこれくらい「突っ込ん」で書くべきです。

(まあ、「大先生サマ」のような聡明な人物はもちろん、作品をいちいち完璧に解析し、熟考に熟考を重ねることなど容易な作業であるはずなので、メンドくさい部分はいろいろ端折って、あのような「高説」を垂れているのでしょうがwww)

ハッキリと言ってしまえば、「ノベルゲームのシナリオ製作技法」も「面白い物語」も、自分の技術を向上させるために用いるのなら、どちらも大差はないと、わたしのようなものは考えます。というか、どちらかといえば、過度の本読みになるよりかは、さまざまな表現法に興味を抱くことのほうが、よほど良い影響があるのだと信じていますが。



ところで、とおりすが Z さんは、「ノベルゲームのシナリオ製作技法」のような本をお書きになるような立場にいらっしゃるのでしょうか? 「一般ぴーぽー」がこういった切り込み方をされるのも、なかなか珍しいように感じましたので。



02:13  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2013.04.07 (Sun)

映画館でかかっているものが「映画」であるとは限らない 13.04.05-NOTE

今回は、いつも利用しているのとは別グループの映画館に行きました。当然のことですが、いろいろと違いがあって楽しかったです。わたしの本心としては、どうせなら、近郊のさまざまな映画館を利用したいところです。上映している作品、していない作品、という違いもありますし。

ただ、そこでネックになってくるのが、作品一本あたりの鑑賞料金です。正直、わたしのなかでは「大人 1,800 yen」という価格設定が適正であるとは思えない部分もあるのです。書籍や CD などと比べるとどうしても高く感じてしまう。それを補うためには映画館の会員になって割引制度を利用するしかないのですが、しかし、手広く会員になろうとすると、今度は入会金がかさんでしまう。このように、どちらにいってもメンドくさいことになるので困ります。

そこを割り切って 1,800 yen を投げつけるくらいの余裕が持てれば良いのですが。




Zero Dark Thirty <字幕版>

去年の末にラジオで町山さんが紹介しているのをたまたま聴いて、「これはぜひ観なければ!」とココロに決めていた作品。一ヶ月前にはまだ、日に数回上映しているようなスケジュールだったので「これはしばらく先延ばしにしても大丈夫だろう」と高を括っていたら、いまはすでに 4月、軒並み上映終了になっているところを、どうにかこうにか探し出して、ギリギリ滑り込みセーフで観ることができました。毎度毎度のことですが。


冒頭のシーンからすでに張り詰めた空気はあったが、中盤あたりに起こる、主人公にとっても契機となる「あの事件」を境に、最後まで緊張感が途切れることはなかった。なにせ、いつ人が死んでもおかしくない状況に彼らが置かれているということを、あの「衝撃」によって嫌でも認識させられるからだ。そして実際、人が死ぬ。数は多くはないが、実にあっけなく無慈悲に死んでいくのである。

この作品は、とにかく「音が怖い」。銃声、爆発音、虚構めいた誇張もなく、淡々と響くそれらの「(日本人にとっての)非日常」が立ち現れる度に身のすくむような思いをした。そこにはただ、死の予感しかないからである。(あるいは、終盤の作戦時に現れる「ステルスヘリ」のローター音では、その大音量でほんとうに振動を感じることができた。これはきっと、映画館でしか体感できない「演出」だろう)


ところで、劇中に「国防」ということばが数回出てくる。具体的には、任務に没頭するあまり狂気じみた執着を見せ始める主人公に対して、CIA の上司が「もうすこし国防のことを考えろ!」と叱責するのだが、そのセリフを聞いて、この人たちは「アメリカを守る」ためにこんなことをしているのだと、改めて気づかされた。例えば、冒頭の「拷問」にしても、別に倒錯的なサディズムからそれをしているのではない。情報を引き出すための「手段」として相手を痛めつけているだけなのだ。(そして、そんな「仕事」に嫌気がさして、担当局員は本国に帰ってしまう)

あるいは、劇中で何度も現れるサウジ・グループのテロにしても、彼らは彼らの世界を守るために生命をかけているのだ。おたがいがおたがいの正義のため、善悪を超えた使命感を抱いて殺し合っているのである。大衆が好むような英雄的行為はどこにもない。だからこそ、この作品は虚しく息苦しいのかもしれない。

この作品を観ていると、「国防軍」だの「愛国心」だの「いざという時には、自分も戦場に立って国を守る!」という覚悟だの「英霊」だのとのたまっている連中は、未だに「戦争」=「World War II」のあたまで、浮ついたロマンティズムに酔っているだけなのではないか、と思えてきてしかたがない。これらの実を伴わない勇ましいだけのことばは、六十数年経っても解けない「甘美な呪い」の影響なのか。

この作品のなかでは描かれていない部分も多いが、しかしわたしたちは「歴史上の出来事」として全体像を認識しているだろう。この作品は、まぎれもなく「戦争の一部分」を切り取って見せているのだ。そして、戦争とはここまでしなければならないし、そこまでしてもなお終わりの見えないものなのである。

彼らはそれをどこまで理解しているのだろうか、と思う。彼らが夢想する中国や北朝鮮を相手にした「戦争」は、どれだけ実情に合致しているのか。つまらないナショナリズムではないとどうやって証明するのか。殺し合いの泥沼に加担する「覚悟」はあるのか。そこが見えない。

彼らのように「戦争」を容易く口にするような人種こそ、この作品で描かれる現実を直視するべきである。もちろん平和を望む人たちも、とにかくオトナだったらぜひ観るべきである。とりあえずソフト化を待って。




おまけ:2013.03.03


特命戦隊ゴーバスターズ VS 海賊戦隊ゴーカイジャー THE MOVIE

いろいろあって、すっかり忘れていましたが、ちゃんと観ていました。

なんか、尺は短かったけれど、かえってそれでテンポ良く、個々のエピソードがダレることを防いだとか、「豪快」っぽいネタ(なんか落ち着くなあ、とか)があって良かったとか、そんなことを考えていたような。

あと、「強竜者」のお披露目シークエンスが、ちょろっと顔を出すようなレベルではなく、けっこうきちんとしていて、ビックリどっきりラッキーでした。

まあ、いつもの「前戦隊が敵に!?」だったけれど、楽しかったですよ。たぶん。



17:04  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2013.04.02 (Tue)

すでに ご当地アイドルと 大差なくなっている-NOTE

なぜか知らないが、書店で見かけて衝動買いしてしまった。




「女系天皇」「女性宮家創設」の問題点を中心に、皇室・皇族の基礎知識、皇位をめぐる歴史上の事件、歴代女性天皇や神話のエピソードが載せられている。新書より高いくせに、新書より内容の薄い「入門書」といった内容である。まあ、それはしかたない。



このムックでは「皇統存続」の害となる「女系天皇」や「女性宮家創設」など問題外、という主張がなされている。まるで「女系天皇」推進派の「陰謀」が蠢いているかのように熱っぽく語っている人もいたが、おそらく推進派とされる勢力は、皇室をこれ以上拡張しない、現状の枠組みのなかだけで皇室を永らえるためには、「女系天皇」もやむなし、と考えているのだろう。

ただし、それでは「万世一系護持!」と吹き上がっている原理主義者たちとのあいだに大きな遺恨を残すことになる。さすがに旧宮家のすべてを皇籍復帰させるのは財政面から見て現実的ではないというのなら、せめて数を限ったいくつかの宮家だけを復帰させるのが、いちばんなのではないかと思われる。旧宮家の面々も、戦後ずっとタダ飯を食らっていたわけではなく、それぞれが民間人としての生活を送っていたのだから、みながみな、一斉に皇籍復帰を望むわけでもないだろう。



それにしても、原理主義者たちの「万世一系」への執着の熱はすさまじいものがある。「世界に誇るべき崇高な伝統(p.9)」「実際の歴史からしても、日本の皇室は 2,000年以上の伝統を誇っている(p.11)」「125代男系男子で紡いできた奇跡の皇統(p.11)」という惹句が踊り「直系・傍系にかかわらず、男系男子で連綿と皇統をつないできた皇室の歴史と伝統は、理屈を超えたところにある。これをないがしろには絶対できないですよ(p.12)」と気炎を吐いているところを見るに、ああ、これは「宗教」なのだなと良くわかった。

理論物理学者のホーキング博士は「一般ぴーぽー向け」の著書のなかで、「古代に生きた先祖たちは、科学や宇宙の仕組みについて、いまより格段になにも知らなかったのだから、神秘的な事柄を信じていたとしてもしかたがない」といったことをサラッと書いていた。もちろん、ホーキング博士は宗教のすべてを否定しているわけではないのだろうが、「カミサマが宇宙を創ったってハナシはねーよwww」くらいのことは考えているのだろう。わたしもそういった気分である。

例えば、神武天皇は「天照大御神の孫神のひ孫」という「設定」らしい。似たようなことは世界中の支配者が主張していたので大して驚きもないが、21世紀も軽く過ぎたこのご時世、そんなフカシを無邪気に支持しているのも問題だろう。「万世一系」には 2,000 年以上の歴史があると誇ってはいても、裏返せばそれは、2,000 年以上も前の価値観を未だに保ち続けているということである。フツーの感覚の人間からすれば、これは異様なことなのだが。

結局、いまの天皇といえば、祭事や国賓の応対、書類に判を押すくらいの仕事しか与えられていない、まさに「象徴」ほどの存在感しかないから、ただただ皇統を永らえることだけが目的化してしまうのではないか。まあ別に、つつがない皇統の継続を磐石に整えたうえで、パンダちゃんのファンクラブのように「ダンケイノダンシガー」とか一喜一憂する楽しみを否定するつもりはないが、自分たちの「信仰」を国民全体に押しつけるようなマネは止めてほしい。




オマケのどうでも良いこと


それと。「中條高徳」とかいうじいさんのインタビューが終始、寝ぼけたような内容でイライラしてしまった。アサヒビールでさんざん社内政治をした結果に「名誉顧問」として居座っている人間が、愚にもつかないキレイゴトを並べているのは大変な罪悪であろう。

ところで、彼の主張には「キリスト者」にとっては納得できない部分もあるように思えるが、「アサヒビール名誉顧問」である彼のような「社会的に地位があり発言に影響力がある人」のことばなら支持するのか、「NaGISA@愛国ボケじじい」の「大先生サマ」に伺ってみたいものだwww



さらに。「愛子内親王」のお嬢ちゃまの顔が両親ともにソックリで、思わず笑ってしまったwww

世間で良くいわれる「娘は父親に似る」がそのままそのとおりに表れているし、それでいて母親の持つ雰囲気もきちんとあるのだ。これを見ると、確かにこの人たちも「人間」なのだな、と理解できる。どこの誰がどんな文化的な見地からの理屈を並べようとも、わたしは自然の理を重んじるよwww

あと「眞子内親王」の「猫口」ねwww このムックの写真でも、以前に観たニュースの映像でもいつも「にゃ!」という表情をしている。これが彼女の真顔なのかキメ顔なのかは知らないが、とても Cawaii と思うwww

このご時世、「Cawaii は正義」なのだから、彼女に弟を出し抜いてでも「女性天皇」になってもらえば良いのではないか?www どうでも良いことだから、テキトーに書いているがwww



21:57  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)
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