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2011.11.30 (Wed)

A human proof-NOTE

この空の下で生きるひとりひとりの人生が、世界の広さを決めている。


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むかし観た報道番組で、印象的な証言を聞いた。

あるパレスチナ人男性がイスラエル兵に「どうしてわたしたちを殺すのか? おなじ人間なのに」と訴えた。その問いに対して、相手のイスラエル兵はこう答えたという。

「いいや、おまえたちはパレスチナ人だ。人間ではない」



個人的に、人間がある対象を「わたしとおなじである(=人間と同等である)」と認定する根拠のひとつとして、その対象に「魂」があるかどうか……もっと正確に言えば、「魂がある」と「わたし」が思えるかどうか、が挙げられると思っている。

愛犬や愛猫に「魂」があると思えばこそ、彼ら動物も「家族」になり得るのだし、食肉を口にしない理由が「牛や豚がかわいそう」なのだとすれば、それは牛や豚にも「魂」があると思っているからだろう。

すくなくともわたしは、ゴキブリを叩き殺すとき、泣いて詫びたりはしない。


もちろん、これは「おなじ人間」の評価に対してもあてはまる。前述したイスラエル兵も、おそらくパレスチナ人に「魂」があるとは思っていないのだろう。しかし、このイスラエル兵の認識は、歴史や政治が複雑に絡みついた難題のうえに成り立っている、ある種の限定的なものだろうか? ……こんな話がある。

何年か前に、ある「有名女性作家」が、自らの飼い犬に対する「動物虐待」を公言するという「事件」があった。その「事件」に興味を持ったわたしは、検索エンジンを使って「事件」に関するさまざまな文章を探してみた。そのほとんどが女性作家に対する批判だった。そこまでは別に良い。一般的な感覚の持ち主からしてみれば、気分の良い話ではないことは確かだったからだ。

ただ、そうやって辿っていった場所で、ある文章に出くわした。その人物は「(犬を虐待するなんて)人間じゃない。死ねばいい」といった内容を「当然のこと」のように書き、また、その文章に対して似たような同意文が送られていたのだ。この短いやりとりには、正直ゾッとさせられた。

女性作家の「動物虐待」に憤り、彼女の行為を痛烈に批判するのは良い。しかし、だからといって「人間ではない(=魂のない)」相手を「死んでも良い」と断罪することはできるのだろうか。自らの「正義」を持って「魂のない」相手を断罪するのは、パレスチナ人を虐殺したイスラエルとおなじような理屈で動いているようにしか見えない。わたしは、「動物愛護主義」はやはり恐ろしいと痛感した。

もっともわたし自身、まだまだ世界に溢れている、酷い男尊女卑的世界観に基づいた性暴力や虐待などに関する情報を見聞きするとき、「彼ら(とあえて書く)」に「魂」はあるのか? と疑わしく思ってしまうことは多々あるのだが。


このように、「魂」がないと認定した相手を徹底的に攻撃するような文化(?)が、とくに Web 世界では確立されている(もちろんこれは現実世界から地続きの現象ではあるのだが、Web 世界の特性としてより顕在化しやすくなっているのだろう)。

例えば、あるフリーノベルゲーム製作者は、「3.11」後に「反原発論者は日和見的な情弱。原発事故はなんの問題もない」と繰り返していた。別に「反原発論者」を「魂がない」と罵倒するのは勝手(確かに「お花畑」な主張も多い)だが、事故の責任を完全無視して、ひたすら東電擁護的な態度に徹しているのはどうかと思えた。「彼」は、フクシマ周辺で生活せざるを得ない市民にもまた、「魂」がないと思っているのだろうか?

まあ、もっと近しいところでいえば、わたしを「狂人」呼ばわりした「Semmy」や、彼を「狂人」扱いしている「匿名掲示板」の連中も、相手に「魂」がないと信じ込んでいるのだろう。彼らが恐ろしいのは、相手を「魂がない」と認定さえすれば、自らの言動に対する責任すらも無効化されると考えていることだ。「アイツは気が狂っている」と喚きながら逃げ回ることに、なんの羞恥心も感じていない。こんな卑怯なやりかたがあるだろうか? だからわたしは「Semmy」が「狂人」であるとは絶対に書かない。

このように、世間では「魂がない(=人間ではない)者」とレッテルを貼られてしまえば、それだけで即、「間違った」存在にされてしまうのである。


だが、考えてみれば、相手に「魂がない」と認定することはすなわち、「わたしは人間である」と宣言することの表裏であろう。動物は「人間性」を規定できない。それができるのは「人間」だけだ。

しかし、わたしたちは真に「人間」たりえるのだろうか? 妖怪人間が「はやく人間になりたい」と吼えるとき、彼らの指す「人間」とは、ただそこに生きているだけの凡人のことなのだろうか? わたしたちが自らの未熟さを呪い、また自らすらをも疑うのなら、安易に「わたしは人間である」とはいえないのではないだろうか。


わたしは世界のすべてが知りたい。もし、他人を「魂がない」と断罪することで「見失うもの」が出てくるのなら、わたしは「わたしは人間である」と証明することを喜んで放棄するだろう。


……といいつつ、わたしもたまには「全員死んでしまえば良い!」といった気分になるときもある。が、それはあくまで感情的な部分での話なので、理想とは切り離して考えたほうが良い。



20:27  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2011.11.19 (Sat)

D線上で にょにょにょにょい-NOTE

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