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2011.03.29 (Tue)

「32年前」頃に 両親が 出逢いさえ しなければ-NOTE




20110328-8



4時間の尺のなかで良くまとまっていたと思うけど、欲をいえば「第9シリーズの最終回」として放送されていれば最高でしたね。それこそ「豪快」のように「OB」「OG」がゲストで出演しながら、他の生徒たちのこともきちんと掘り下げて、それであの「卒業式」になっていれば、ほんとうにいうことなし&大号泣だったんですが。


わたしは「第4シリーズ(たぶん再放送で。リアルタイム視聴は第5シリーズから、のはず)」からキチンと観だしたので、正直「加藤優」にそれほど思い入れはないんですが、あの前半の山場、「挫折しかけた金八が教え子の言葉に励まされ、再び生徒と向き合う決意をする」シーンは、ま~あ、泣けました。あそこまでの流れは完璧でしたね。

その後、今回の主人公である「景浦」の前に、かつての「3-B」生が出てきて、いろいろと世話を焼くんですけど、ここらへんの場面で(というか、全体を通しても)「上っ戸さん」が出てこないのは、「直は<青年>になっていないといけないから」……ということだと思うことにしています。まあ、セリフの上では、きちんと「存在」していましたし、過去のVTRではフツーに顔を出していましたし。それで良いです。


……とはいっても、実際、最後の体育館での「卒業式」のシーンで、それまでの展開とかぜんぶ、一気に吹っ飛んじゃいました。ほんと、平成に入ってからのシリーズをかかさず観てきた人間にとって、これほどの「ご褒美」はありませんよ! やっぱり「思い出」の価値は、こういうところに表れるんですね。

シーンのなかで、生徒ひとりひとりの「当時のVTR」が入るんですけど、それを見てると、ほんと「人生の積み重ねが、人を変えていく」って感じますね。というか、やっぱり中学生くらいでは、男子は「ガキ」、女子のほうも「野生」入ってる子がいて、みんなまだまだ幼いですね。いまのほうが断然美しい(第8シリーズの子はそう変わってなかったけど)。まあ、ほとんど変わってない人もなかにはいましたけど。思春期の時点ですでに完成しているっていうのも、ある意味スゴイです。

わたしが「学園ドラマ」をいまになっても観てしまうのは、やっぱり「中学のとき、まともに登校すらしていなかったから」なのかもしれない、と思いますね。良くも悪くも「思い出」がないから、いつになっても新鮮で、尊いものに見えてくるんです。あと、たくさんいる生徒それぞれのことを描けば、自然と群像劇になるから、そこもなんだか良い(わたしが「Free Novel Game」の「王道系学生物」が嫌いな理由も、ここにあるのかもしれません)。


製作の裏側では、原作者の小山内先生とTBSとの間で長いことゴタゴタしていたみたいですけど、でもとりあえず、TBS側が「ゴメンなさい」して、その結果「第8シリーズ」と今回の「FINAL」が作られたんだから、ファンとしては感謝しないといけないですよね。ほんとうにありがとう。とりあえず、さっさとBlue-ray化してください。



おまけ

・「平愛梨」は『20世紀少年』がなければ、あそこにいなかったかもしれないんだなあ、と思ったり。そう考えれば、あのクソつまらない作品も意味があったのかな。

・「岩田さゆり」が、なぜかひとりだけヘラヘラしていたのは、ちゃんと役を演じているからだ! と、当時のVTRを観て設定を思い出したり。

・「福田沙紀」と「黒川智花」がほとんど「そのまま」に見える……ってところが、逆に恐ろしかったり。芸能界はスゲーところだわ。ただ「見慣れてるだけ」かもしれないけど。

・あの「真顔でも顔にちから入ってる」男前さん、誰だっけ? 第6シリーズに出てくる優等生の人。なんか、さらにカッコ良く(強く)なってて、思わず笑っちゃった。

・あんなに溌剌としていた校長先生(赤木春恵)が……。そりゃあ『渡鬼』も、アレだわな。セリフはちゃんと言えてたけどね。

・昭和のシリーズで見られた、女子生徒たちの「あの独特の演技」は、いったいどこから来て、どこへ行ったの?

・上記リンクの記事で指摘されているように「そっくり」な上に、本人もまた「演ってみたい」と切望しているんだから、岡村さんに「金八先生」を譲ってしまっても良いのに。ただ、岡村さんに「国語的なウンチク」が語れるのかな、って気もするけど。まさか、卒業式でブレイクダンス踊るわけにもいかないだろうし。

・ほんと、生徒たちの「その後の姿」を見ると、オトナになれば外見的に「どうとでも化ける」可能性があるから、中学生くらいの子は希望を持っても良い、といえるね。まあ、キャラがより「変な方向」に発展する可能性もあるみたいだけど。いまのほうが間違いなくキャラ立ってるって子もいたし。……これもまた、人生の楽しさ。
03:53  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2011.03.19 (Sat)

よあけ であるか たそがれ であるか-書きゴミ

すでにガレキと化し、雪に埋もれてしまった「我が家」に戻り、

「泣くに泣けない」「(年齢的に)新しく家を建てることもできないだろう」

と打ちひしがれていた老人の「絶望」を思う。



乗っていた自動車ごと津波に流される、という体験を経て

それでもなんとか遠く関東の地に逃げ延びることのできたご婦人の、

決して言葉にならない「恐怖」を思う。




世のなかはいま、この歴史的惨劇に見舞われたわたしたちの

「善意」からの「祈り」で溢れかえっている。



がしかし、わたしたちが掲げる「勝利と再生の物語」によって

「ほんとうに」癒されるのは、「被災地」と「そこに住む人々」か?

それとも「すでにガレキのなかにいた」わたしたちのほうか?



もし、そう遠くない未来に「生まれ変わった街」を見て安堵するためだけに

この「物語」があるのなら。

あるいは、「わたしたちがすでに手放してしまったもの」を取り戻すためだけに

この「物語」があるのなら。


きっと、これほど恐ろしい悲劇はない。

老人の「絶望」や、ご婦人の「恐怖」をも「消費」してしまうということだから。




「未来」を失った多くの犠牲者とおなじように、

生き残ったわたしたちもまた「過去」を失った。

記憶のなかの、ほんの一週間前までの「世界」は、すでにどこにもない。

わたしたちは、確かに新しい世界のなかで立ち尽くしている。



ただ、この「新しい世界」が夜明けに向かっているのか、

それともすでに黄昏のなかにあるのかは判らない。

まだそこに「希望」があると信じる人がいる限りは、とりあえず。




<突然振って湧いた「祭り」に浮かれている人たちの「がんばれ」「負けるな」「もういちど笑顔を」などの「善意の叫び」は、「買占め行動」や「略奪行為」をする「不届者」とのコインの裏表。これでは結局、似たような災害が起きるたびにおなじことを繰り返すだけで、実際はなにも変わらないか、あるいは「もっと良くない方向」に社会を押し流してしまうだろう。

わたしは声高な「祈り」よりも、老人の拭いようのない「絶望」のほうを信じる。「希望」はわたしたちの求める「物語」のなかではなく、これからの「わたしたち自身のあり方」にこそある>
02:57  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2011.03.17 (Thu)

厳母に捧ぐ ballade-NOTE

『レディアントマイソロジー3』の(わたしの現時点でのゲーム進度から見える)シナリオテーマは、「自然との調和(ありもしない場所への回帰)」と「現在から未来へと連綿と続く生命の営みの肯定(いのちをだいじに)」だと思う。

前者は要するに、「自然を破壊しないと成り立たないような社会は善くないよ!」という現在的なメッセージなんだろうけど、今回の東日本大震災を経験したわたしたちが身に染みたことは、むしろ「自然」の「些細な気まぐれ」によって「わたしたちの社会」はカンタンに破壊されるということではないだろうか?

人類が化石燃料を採り尽し、世界中の森林を丸裸にするのに何年かかるのかは判らないが、「自然」が半日とかからずに多くの人間の生活基盤を根こそぎ押し流し、そのいのちすらも奪い去ることができることは、ここ数日の報道特番でイヤというほど思い知らされた。


思うに、「社会」とは人類の都合に合わせて「自然」を無理矢理押し退け奪い取った「領土」などではなく、わたしたちがわたしたち自身を閉じ込め守るために、しかたなく作った「檻」なのではないだろうか。

「社会」が「檻」である以上、そのなかでの生活は決して快適とはいえない。しかし、それでもひとたび「檻」が破られ、その外に広がる「自然」と直接対峙することになるよりかは、はるかにマシなはずだ。実際、「自然」の強大すぎるちからの前にわたしたちはうろたえ、ちからなく立ち尽くし、すべてを明け渡すことしかできないのだから。


平時に「自然」を「人類の被害者」のように宣伝していることが、いかに馬鹿らしいかが良く判った。わたしたちは「わたしたちの生活環境」を「管理(これもまた不完全なようだけど)」することはできても、「自然そのもの」の行く末をどうこうできるわけではない。結局、アチラはコッチの都合などお構いなし(でなければ被災地に雪が降るはずがない)、わたしたちが生かされているのも、ただ「たまたま」のことなのだ。

この「事実」に絶望するべきか、目を背けるべきかは、まだ判らない。




おまけ:

もはや「自然との調和」なんてものは、「檻」のなかから「自然」を眺めるうちに、いつの間にか「自然」本来の姿を忘れ、ついつい抱いてしまった「甘ったるい幻想」にしか思えなくなってしまった。



おまけ のに:

どうでも良いことだけど、テイルズシリーズ特有の「上から目線の御高説」は、どうにも肌に合わない。なぜなら、シナリオ中、度々引き合いに出されて「批判」される「ダメな一般大衆」のなかに、わたしもバッチリ組み込まれているからだ。少なくとも、あの物言いにカンタンに共感できる感性の人とは、オトモダチになれそうもない。



おまけ のさん:

「より大きな脅威を前に、いままでの争いを止め結束する大衆」という構図は『ファンタジア』から続くテイルズシリーズではおなじみの展開だけど、現実世界で数多く現れている「被災者支援のためのチャリティキャンペーン」に、おなじようなメンタリティを見ることができる。

あれは「日本人本来の優しさの発露」でも「ただの偽善」でもなく、「決して抗えないもの」を前にして、せめて隣人同士は手を取り合うしかない、という、ある種の「悲しみ」なのではないだろうか。

「救いたい人」はきっと、「救われたい人」なのだ。ココロはガレキのなかにいる。



おまけ のよん

「優しさ」や「思いやり」があれば、世界は良くなる……という主張(『マイソロジー3』でもおなじことを言っている)が正しくないことは、すでに証明された。

実際、「何億円もの義捐金」や「個人からの救援物資」が集まったり、被災地でボランティアする(しに行く)くらいの「優しさ」は、みんな持っていた。が、それでも「以前の世界」に充分満足している人は少なかった。まあ、今回のような「非常事態」が起こったから、ようやく「優しさ」が発揮されたのかもしれないけど、それだとやっぱり「普段は」役に立たないってことになる。無意味。

結局、「祭り」の「高揚感」でワケわかんなくなってるんだろうなあ。まさかみんな、「ハコ」と「インフラ」と「物資の供給」さえ整えば、以前の生活が「戻ってくる」とか、本気で思ってないよね?
02:03  |  +はしがき  |  Trackback(0)  |  Comment(0)
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